このお話は某長編を書いている最中に放送されていたドラマに絡めております。
その週は、ほとんどが大祐の回想シーンということで先に家に帰っていたリカは、ばたばたと慌ただしい足音を聞いて、ん?と顔を上げた。キッチンでジャガイモの煮込みの支度をしていると、その大きな足音は部屋の前で止まった。
いつになく、がしゃんっ、ばたんっ、と大きな音がして玄関から走ってくる音がする。
「リカっ!リカさん、リカさんっ!!!」
「はい。はいはい。何でしょう?大祐さん。お帰りなさい」
「た、ただいまっ!あ、いい匂い。じゃなくて!!」
「なあに?手洗ってきてね。……特に、よその彼女との撮影だったんだから」
にこ。
一点の隙もない笑顔にキッチンに駆け込んだ大祐がリカの肩を掴んでいた手を瞬間に離した。手の置き場が無くなってわたわたと慌てたものの、だから!と振り上げた手をもう一度下ろす。
「別の仕事!スナイパ―役引き受けたってほんと?!」
「うん。ほんとー。ちゃんと話すから、先に手を洗って、着替えてきて?」
「ええっ!……う、はい」
すごすごとリカの前から姿を消して、洗面所で手を洗っていた大祐が、ちらちらとリカの顔を見ながら着替えに向かう。
着替えを済ませた大祐が、もう一度キッチンに立つと、話をする前にリカに茶碗を差し出された。
「はい。運んでくれる?」
「あ、うん」
「お腹すいちゃった。早く食べましょう」
てきぱきとよそったご飯と、一緒盛りにした煮物とサラダと、味噌汁。
それがテーブルに並ぶと、揃って手を合わせていただきます、と言った。
「……」
「……もう。わかりました。はい。大祐さんがやってるスナイパ―役の後釜になる女性の警察官の役ね」
目でひたすらに訴えてくる大祐に耐えかねたリカはパチン、とテーブルの上に箸をおいて口を開いた。
「なんでっ?!」
「なんで?」
「だ、だって、男ばっかりだよ?いや、ゆずるさんとか横川さんはいるけどでも」
「だって面白そうじゃない。よくない?夫婦で共演するのって」
どこまでも面白がっているらしいリカに、おろおろと落ち着きがない大祐は、何を言えばいいのかとうろたえてしまう。
正直、並行する現場はリカが思っているよりはるかに過酷なシーンが多くて、大祐も服を脱げば擦り傷や打撲だらけという日も多い。そこにいくら後半とはいえ、登場することを考えたら止めたくなるのは仕方がない。
いくらそれが仕事だとわかっていても心配なのだ。
「あのね。元陸自の特殊部隊っていう設定みたいだからしばらくトレーニングと訓練がはいるんだって」
「陸自の?!え、そうなの?!」
「あ、そうはいっても、男性と違ってこういう癖がある、とかそういうのを理解するためでほんとに同じ訓練受けるわけじゃないよ?でもね、ライフルとか拳銃打つから構えとか練習しなきゃ。なんか、本当は陸自の担当者さんが教えてくれるはずだったんだけど、比嘉さんが」
「比嘉さん?!」
同じく箸をおいて、リカの両手をとった大祐が両手握りしめたまま上下に振り回す。
「比嘉さんてどういう事?!」
「比嘉さんと、槙さんが包囲網だってなんかよくわかんないこと言ってて、結局陸自の担当さんじゃなくていつも担当してる僕らが教えますって」
それを聞いた瞬間、ぱっと手を離した大祐が携帯を掴んだ。速攻で比嘉に電話をかけた。
『はい。比嘉です』
「比嘉さんっ、比嘉さん!!」
『空井一尉。まず大きく深呼吸しましょう。ハイ吸って~、吐いて~』
「すーっ。……じゃなくてっ!比嘉さん、リカのじゃない、稲葉さんの訓練」
『稲葉さんの訓練は、スナイパ―という役どころですから、銃器の取り扱い、身のこなし、その程度でいいとOKをいただいてます。現場に入れば専任の方が付くそうなので、事前のトレーニングは僕らがすることになってます。大丈夫です。空井一尉が今ほかの仕事も入ってるところにそんな心配なネタ差し込んでませんから』
「あ……よかった」
露骨にほっとして座り込んだ大祐を電話の向こうの比嘉がくすくすと笑う。
『ロコツですねぇ。稲葉さんもお仕事ですからあんまりやきもちを焼くと叱られますよ?』
「比嘉さん!!だって、だって、俺とリカとじゃ違うじゃないですかっ。この前まで弁護士とかそういう仕事してたのに」
『はい。わかってますよー。おちついてくださいね。とりあえず、基本操作は柚木さんにお願いしてます。後の体術は……』
「そんなのやるんですか?!」
シーンとしては、リカが演じる役が元陸自の特殊部隊であることがわかるようなシーンが含まれるらしい。
『ま、おいおい検討しましょうね』
「比嘉さんっ……。あっ」
動揺していた大祐の手からぱっとリカが携帯を奪い取った。
「こんばんは。お電話かわりました。稲葉です。夜分、すみません。比嘉さん」
『あ、どうもどうも。これは空井夫人』
「……」
『空井一尉には今ほど訓練についてお話しましたので、後はお二人でよーーーくお話してください』
「……どうも」
ぴ。
「ああっ!!なんで切っちゃうの!」
「だって、ほとんどは柚木さんが教えてくれるって言うし、あとは大祐さんが教えてくれるんでしょ?」
「……えぇっ?!俺なの?」
「うん。だって、比嘉さんも槙さんも、柚木さん以外じゃ、皆、後が大変だからって」
ぱぁぁっとその顔に安堵が広がってから、はっと我に返った。
大祐たちが普段、当たり前だと思っている行動も、普段、ストレッチ程度で体を動かしていないリカには辛いかもしれない。
すっとリカが掌を上げて見せた。
「大丈夫。大祐さんが考えそうなことはもう全っ部皆さんに言われてきました。ストレッチの後の基本メニューは柚木さんが組んでくれるって。あと、夜に表を走るなら大祐さんに一緒に行ってもらう事って言うことも言われてる。それに……」
「それに?」
薄ら赤くなったリカが、言いにくそうに視線を逸らした。
「……って」
「え?聞こえない」
「だから!柚木さんが言ったんですからね?!」
怒ったように、念を押すと、ちょいちょいっとリカが手招きする。ほかに誰がいるわけでもないのに、大祐の耳元で内緒話をするように囁いた。
―― 柔軟は、ベッドの中でたくさんしてるはずだから大丈夫だって……
「……っ」
「わ、私だってそんなこと言われて恥ずかしかったんですからっ」
赤くなってしどろもどろに柚木に言われたというリカをばふっと両腕で抱きかかえた。
「ちょ、大祐さん?!ご飯っ」
「無理っ、後で!」
「こら~!」
問答無用でそのままソファの上になだれ込んだ後、ぐったりと倒れこんだリカの代わりに大祐は冷めてしまった夕飯をすべて温め直した。
–End