「あ、あの……」
「やだな、もー。冗談ですよ、冗談!昨日は空井さんにご迷惑かけたので、今日はそんなことないように、空井さんの家の近所にしましょう。私、電車で帰りますから」
「えっ!!駄目です。それは、ちゃんと家までお送りしますから」
急に笑い出したリカが冗談だという言葉よりも、送らなくていいという方が耳に残る。
狭い車の中で、二人きりで、動揺するだけして。
―― もう、単語しか頭に入ってこないよ……
「稲葉さん、すみません!お願いがあります」
「はい」
「……一瞬でいいので、ぎゅってしていいですか」
「は……、え、はい」
自分だけだと思っているのは実はお互い様で、夕食も一緒にと言われて、このまま帰るわけではないと喜んでいたリカは、さてどこでとなると言葉に詰まる。空井が車だけに飲み屋と言うわけにもいかず、どこかファミレスでと言うのも味気ないというか、気が利かないだろうかと迷っているうちに、ちょっとした悪戯心で空井の家と言い出した。
本気で言っているわけでもなく、ただちょっと悪戯心だったのだが、思いがけず空井がすっかり面食らっているのを見て慌ててしまったのだ。
冗談だと言って、取り繕うように空井の家の近くでいいと言ったリカに驚くほどの勢いで言い返された。
ばちんとシートベルトを外す音がして、右下のレバーを引いた空井がシートを思い切りずらしてリカの方へと向き直る。もうすでに周りの車はほとんどいなくなっていて、目の前のリカが目を丸くしている姿だけが空井の頭の中を占めた。
シートに覆いかぶさるようにそっとリカを包み込んだ。抱きしめるというより、覆いかぶさっただけで、空井の腕はリカからはほんの少しだけ離れていたのだが、その距離と、空間にリカは息が詰まる。
「……そらい、さん?」
精一杯、いつもと変わらない、リカの呼びかけに、リカからはみえないところで空井が微笑んだ。
家に行ってもいいかと言うことは、女性の家に招き入れられること以上に、意味がある気がして瞬間的に沸騰しそうなほど動揺してしまったが、そこに意味があるのは自分だけでリカにとっては他意なく、呟いただけの事なのだろう。
―― このまま、本当にデートだったら抱きしめてしまうところだろうけど……
ぎゅっと抱きしめきれないところが、今の二人の距離を表していた。
すっと身を引いた空井は、ステアリングに片腕を預けて、シフトレバーに手を置く。
「すみません。驚かせてしまって。行きましょう。途中でどこかあればそこに入ればいいし、いい店がなかったら、稲葉さんの家の近くでもいいし、一度車を置いてから電車で送る途中でも構わないですしね。なりゆきで行きましょう」
ドライブレンジにあわせると、サイドを落としてアクセルをゆるく踏み込む。出庫のゲートを抜けて細い住宅街を走り出した。
―― 今の……、なんだったの
身を竦めたまま、なんのリアクションもできずに固まっていたリカは、胸のあたりにずっと組んでいた腕を膝の上に下ろした。
また、誘ってもいいのかと聞かれて、はっきり言えば期待した。
好意がなければそんな風に言わないだろうとは思ったが、いつか珠輝にも言われたように、ただなついているだけ、ということも頭を過りはする。それでも、自然に夕食もと誘われて、この流れは間違いないと思っていいのだろうか。
だったら、一言、好きだと言ってくれればいい気もするが、なし崩しに付き合うこともあることぐらい、リカにも経験がないわけではない。
サークルの先輩と気が合って、出かけるようになって、サークルの合宿でキスされた。
その時は、付き合ってるんだからと言われた気がする。
―― でも、空井さんはきっと、困った顔で誤解させたらごめんなさいっていいそう……
車の外は、夕暮れの空に変わりだしていて、夕日とは反対側は青に染まり始めていた。
「日が暮れるのって、見てるとあっという間ですね」
ぽつりと呟いたリカを運転しながらちらりと空井は振り返った。
「空の境がどんどん色を変えていくんです。まったく合わないような青と朱色なんですけど、すごいコントラストです」
「すごい色ですよね……」
混ざり合う色は空井とリカのようだ。
まったく合わないようでいて、稀なる色合いである。
車が横浜の街を抜けていく間も色合いはどんどん比率を変えていく。
「空井さん、子供の頃、夕方になったら家に帰る様に言われたりしませんでした?」
「ああ。それは普通にありましたよ?」
「先に帰る子がいたり、最後までいる子がいたり。私、結構最後まで残っている方でした」
両親が共働きだったから、リカは遅い時間まで遊んでいられた。弟の夕食を作る様になるまでは、一番最後まで残っていたが、夕食を作る様になってからは、近くの学校から聞こえる5時の放送が聞こえると飛んで帰る。
「時間ぎりぎりまで遊んでいるんですけど、気持ちはどんどん焦っていくんです。ああ、もうすぐ帰らなきゃって。いっそ、早く帰っちゃえばいいんですけど、そうしたら自分が帰ったその後に何か特別なことがあって、自分だけがそれを知らないでいるのが嫌でどうしてもぎりぎりまで残っちゃうんですよね」
「あー。なんか、その気持ちわかります。そういう帰った日に限ってなにか面白いことがあったりするんですよね」
誰にでもあるだろう。
そんな子供の時間を思い出す。
「稲葉さんにもそんなときがあったんですね」
可愛いなぁ、と信号待ちで止まったタイミングで助手席を見た空井は、あ、と妙な感覚に襲われた。こちらを見ているようで表の空に魅入られているリカの顔と、その背後の空の色とが深みを増していてすぐそばにいるはずなのに、遠い場所にいるような気がする。
「大人になると、夕方とか終電の前とか、思うんです。自由だなっていうのと、急いで帰らなくてもよくなっちゃったんだなあって」
おかしいですよね、と小さく笑ったリカが妙に寂しそうに見えた。
「……寂しいんですか?」
「……え」
「いや、何となくそうみえたんで……」
いつも強気で弱いところを見せたことがないリカの一面に空井は視線を逸らした。
抱きしめてしまいたくなるから。
「そう……なんですかね。寂しいっていうのかな。よくわからないけど、でも……」
時には一人なんだなと身に染みてしまうのは、ここ最近になって特にだ。空井が一緒にいたらと思う時間が増えれば増えるだけ一人の時間をはっきりと感じるようになったともいえる。
一人でよかったと思う時間もあれば、こんな時に誰かが、いてくれたらよかったのに、と思った時に空井の顔を思い浮かべている自分を思い出す。
―― 空井さんを思い出すなんて言えないけど……
「空井さんは、そんな風に感じることありませんよね」
曖昧に笑みを浮かべて、リカはそう呟いた。
外はほとんど濃紺に包まれていて、車の流れだけでなく周りにもライトの明かりが増え始めていた。