〜はじめのつぶやき〜
お待たせしました~。お待たせしすぎですね。
再開でございます。最近、過去作を某支部にアップしているのですが、お待たせしていました分、こちらには一足先に
書下ろしをアップします。
BGM:感電
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逃げたい。
逃げ出すわけにはいかない。
堪忍袋を切らせた女将が呼んだ旦那を待つ間、お柏は震えながら何度も女将に頭を下げた。
「女将はん!堪忍どす!どうか、どうかお願いします!」
「あんたのその姿見てたら少しは胸もすぅっとなるわ」
「女将はん……!」
お柏の怯える様に女将は溜飲が下がる思いで腕を組んだまま、ぷいと顔を逸らした。
その足元に縋りついたお柏を不愉快そうに振り払う。女将にとっても、お柏は厄介な悩みの種でしかないのだ。
借金のかたに働く妓たちは皆、大事な店の商品である。わがままもある程度なら聞いてやるし、客に失礼のないよう、躾もする。
だが、お柏は言うことも聞かず、わがまま放題、周りの妓たちだけでなく、働く者たちの皆が嫌がるくらいだ。
だからと言って、借金があるだけに追い出すわけにもいかない。お柏の評判は広く知れていて、ほかの見世と入れ替えるわけにもいかない。
「あんたは本当に、迷惑以外のなんでもない」
「お、女将はん、うち……」
「旦那がきはったえ」
女将がゆったりと口にしたのと同時に信濃屋の旦那、秀兵衛が姿を現した。
秀兵衛は、信濃屋に常にいるわけではない。
「女将。さて、今日は何事だね」
「旦那はん。もう、このお柏には手を焼いてますのや。どうにもならへん」
「ほう……。お柏。どういうことかね?」
秀兵衛は、この時代の者にしては長身で細身だ。元は武士だというらしいが、その威圧感は店の者たちもしらず背筋が伸びる。
決して、声高に人を叱り好けたりするわけではないが、その冷ややかで厳しい様子に恐れるものも少なくない。
畳に額をこすり付けたお柏は、頭をあげることができないでいた。
「お柏。私の話が聞こえないのかい?……それはよくないことだねぇ」
「あ……。あの……」
「女将。誰かにお柏を離れまで連れてこさせてくれるかい。私はお客様にご挨拶をしてこよう」
怯えたお柏を前に冷たい声が落ちてくる。女将は承知したと頷いて、店の小者を呼びつけた。男衆にお柏が逃げないように見張らせて離れへと連れて行かせた。
「ご無礼致します」
声をかけて総司たちの座敷に姿を見せた秀兵衛は、上等な羽織の裾をさばいて膝の上に手を置いた。
「先生方。いつもご贔屓にありがとうございます」
「おう。旦那か。久しぶりだな」
盃をあげた永倉が声をかけると、隣の千草に合図をする。頷いた千草が永倉の白鳥を手にして、腰を上げると手をついて部屋の中に入った秀兵衛に酒を差し出した。
「どうもうちの妓が粗相をしましたようで……」
「いや?そんなこたぁねぇぜ?」
「そういっていただきますと、こちらも助かります」
恐縮しているという体だが、秀兵衛の態度は堂々としていて相手が新選組であってもまるで対等であるかのようだ。
総司は、自ら白鳥を手にして秀兵衛に酒を勧める。
「こちらこそ、いつもご迷惑をおかけしています」
「とんでもございません。沖田先生、いつも神谷さんにはお気遣いいただいてます」
さらりと懐から金平糖の包みを差し出す。セイに、というだけではなさそうで、畳に両手をついて原田の方へ向きを変えるとこちらは評判の芋飴の袋を差し出す。
二人の妻女に土産をという如才のない様子にそれぞれが軽く頭を下げた。
それではと部屋から出ていった秀兵衛を見送った後、三人は顔を見合わせる。
「さすが」
「まったくだな。さすが信濃屋の旦那」
お柏がいても信濃屋の信用が少しも損なわれないのはこの旦那がいるからというのは確かにある。
店にいつもいるわけではないにも関わらず、この旦那がしっかりとしているからというのはよく知られた話である。
その秀兵衛は、総司たちの座敷を後にした後、ほかの客たちにも挨拶をしながら離れへと向かった。
部屋の前にいた小者に合図を送り、障子を開ければ部屋の真ん中に座っていたお柏が怯えた顔をあげる。
「さて」
びくっと見てわかるほどお柏が震えて、秀兵衛から少しでも離れようとする。
「お柏」
後ろ手で障子を閉めた秀兵衛が怯えたお柏の前に屈みこむ。ぐい、とその顔をつかんで引き上げた。
「……ひ」
「何をそんなに怖がるんだ」
「あ……いえ」
「日頃、女将やほかの妓たちだけでなく、お客にまで悪態をついているらしいが……。私にもやって見せたらいいじゃないか?」
できっこない。
できるわけがない。
身に沁みついた恐怖は、本能的なもので、どれほど時間がたとうと、お柏にとって旦那である秀兵衛は恐ろしい人でしかない。
そんなお柏の腕を秀兵衛はつかんだ。
「どうした。お柏」
「か……、堪忍しておくれやす……。もう、もうしまへん」
「私はね。お柏。一度や二度なら見逃しもしようが、お前はそうじゃない。そういう者はどんなに言おうとまた同じことをすると思うのだよ」
怖い。
怯えて揺れるお柏の瞳に、冷たい秀兵衛の顔が映った。