遅れてきたメール4

「んー……。今のうちに……」

駅までは10分くらいだが、大きな道路を渡ってその向こう側がスーパーだ。行けば30分くらいはかかるだろう。
その間にと、着替えを出して慌ただしくシャワーを浴びた。普段、部屋に帰ってすぐに化粧を落として、シャワーを浴びているので、つい気になってしまうのだ。その後のことを期待しているのではなく、とにかく、汗臭くはないか、喫煙者も多いだけに匂いがついていないか、不安だったのだ。
素顔はさすがに恥ずかしくて、薄く顔を整えてから、バスルームをきれいに片づける。

空井が来た時にと思って、用意していた着替えとバスタオルを重ねておいた。

予想より少しかかって、部屋のチャイムが鳴る。玄関まで急ぐと鍵を開けて空井が戻ってきた。

「すみません。遅くなって」
「いえ、全然。かえってすみませんでした」
「あれっ?稲葉さん、着替えました?」

かさかさとビニールの音をさせながら部屋に戻った空井が何となく、雰囲気が変わったリカをちらりと見る。
あ、と髪をかき上げたリカの耳にピアスがない。耳元で揺れるピアスがいつも可愛いと思っていた。

「ごめんなさい。いつも、帰ったらお化粧、落としちゃうんで……」

おつかい、お願いしておいてすみません、というリカに首を振る。

「気にしないでいつも通りにしてください。僕のほうがお邪魔してるんですから」

ほんとに?と笑うリカの鎧が一枚ふわりとはがれた気がして、胸がドキドキした。
仕事で会っていたことが大半を占めていたからもあるが、今のリカはひどく柔らかい気がする。空井からビールを受け取ったリカは、二缶だけだして残りを冷蔵庫にしまった。
それから、ちょいちょいと手招きをする。

「ここ。お手洗いとお風呂です。これ、よかったら使ってください」
「あ……はい。ありがとうございます。……ってこれ」

真新しいスウェットの上下に少し驚いた。まさかリカが着るためのものとも思えない。
くるっと背を向けたリカが空井さんの着替えにと思って、という。サイズ、よくわかんなかったけどと慌てて付け足すところもなんだかリカらしい気がした。

「ありがとう。あとで、借ります」

気恥ずかしいからなのか、背を向けていても可愛いと思ってしまう。その場に着替えとタオルを置いて、テーブルに戻ると、頷いたリカと再び腰をおろして飲み始めた。

「あれっ、そういえば稲葉さんって俺より下なんですよね」
「はい。もうすぐ28になりますけど、空井さんより、1つ、あ、学年だと2つ下ですよ」

くだらない話からたわいのないことも含めて、今まで話したことがなかったことを次々と話す。リカの方は前にニュース記事を見ていたので、空井の方が年上なのは知っていた。逆に、空井の方も申請書類を何度も見てきたのでリカの生年月日はわかっている。

「弟がいるって話は前にしましたよね」
「ああ、言ってた!だから、頭撫でるとかできたんだってあの時……」

自分で言ってからしまったという顔になる。男の自分が先に無様に泣いた姿など何も今思い出さなくてもと思う。思ったことがそのまま顔に出た空井に、ちょっとだけリカが頑張って笑顔を作る。

「私も……撫でてもらいましたし」

―― ああ、もっとまずい

リカが泣いた時のことはますます、気まずくなる。あの時の自分はもうほかにリカにしてやれることはないと思っていたのだ。

「い、今はもっとできること、ありますっ」

思わず座りなおしてまっすぐにリカを見る。遅れて、気まずいことを言ったと思ったリカが小さく微笑んだ。

「こうして、傍にいてくれるだけで十分です」

へへっと笑ったリカの笑顔がひどく切なく感じた。勝手な独りよがりかもしれないが、2年もの間、ほかに好きな相手ができてもおかしくはなかったし、リカならほかにいくらでも相手が立候補しただろう。
改めて、膝に手を置くと深く頭を下げた。

「……ごめん」
「あああ、もう、私の方こそ、ごめんなさい。変な話しちゃった。もう、今のなしです、なし。え、と、じゃなくて、空井さん。携帯、まだそれ使ってたんですか?」

随分傷だらけになった携帯だが、替えられなくて使ってきた。

「稲葉さんは、スマホですね。使いやすいですか?」

こく、とリカが携帯を見せながら頷く。仕事のメールもワンセグも見られるようになったのは随分便利で助かっている。がむしゃらに働いてきたリカには、その方が安心できる大事な仕事道具だ。

「替えないんですか?」

空井が取り出した傷だらけの携帯を手にして、そっと撫でる。開くことはないが、その細かい傷の一つ一つが、リカの知らない時間を伝えてくれる。

その手に自分の手を重ねた。
この携帯で、リカに何度も電話して、メールをもらったのだ。自分から手を離したくせに何度も読み返した。

「……携帯、替えたらいろんなもの、入れ替えなくちゃいけないじゃないですか」

顔を上げたリカの手から携帯を取り戻して、ぱちっと開く。リカからのメールはフォルダを変えて全部取ってあった。

「だから……替えられなくて」

替えてしまったら、リカの登録も消さなければならないような気がして。

―― ちゃんと言おう。伝えよう。2年分溜めた思いはきちんと。

「稲葉さんからもらったメールは全部取ってあって……。時間があれば何度も読み直してました。すごく、前のやつなんか、読んでるとまだ一緒に仕事していた時みたいで、ちょっと嬉しかったな」

じっと見つめてくるリカの顔を見るのができずに、残っていたビールを空にする。
飲みすぎたかな、と呟いて空井が立ち上がった。風呂、借りますね、と言ってキッチンの反対側へと向かった。

投稿者 kogetsu

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