柚木もあえて、空井が断ったことは口にしない。
それを聞いたら、リカが来るかもしれないとも思ったが、そうまでして無理強いしたくなかった。
まだ、生傷が癒えていないリカは、まるで、広報室に来たばかりの頃の空井の姿をそのまま映しているように見える。
封筒を鞄に戻した柚木がビールグラスを手にして、リカの顔を見ずに、ねぇ、と呟く。
「あたしたちさぁ。ほんとに、なんて時代に生きてるんだろうねぇ」
「どんな時代だって、槇さんと出会えたじゃないですか」
アンタはどうなの。
柚木の、喉の奥に飲みこんだ言葉は口から出たがって暴れそうになる。
アンタも空井と出会ったんじゃないの。
運命論者ではないし、そんな言葉にどんな意味があるのかもわからないけど。二人はこのままなんだろうかと今でも、時々、槇と話すことがある。
元々、饒舌な方ではない槇だから、あまりはっきりとした答えはいつもないけれど。
『空井、稲葉さんのこと、好きだと思うよ』
ぽつりと言った槇の言葉は現在進行形で、まるでその場にいるように聞こえた。槇自身がそうだったように、何年たっても色褪せることなく、変わらず胸の内にあるもの。
「稲葉」
何かを言ってやりたくて、何も言えない。自分だけさっさと幸せになってごめん、と言いそうになってぐっと堪える。そんなことを言っても、少しも嬉しくはないだろうし、何にもならないとわかっているから、余計に何も言えなくなる。
「どういうきっかけなんですか?あ、もしかしてそろそろおめでたとか?」
「まさか。槇がさ。今度、移動になるんだ。十条の補給基地なんだけど、そしたら一緒に住むのもいいかなってことで……」
「槇さんも移動なんですね。そっかあ。じゃあ、もう広報室に残ってる人は比嘉さんだけになっちゃいますねぇ」
グラスをあけて、いつもならもっと飲む二人なのに、柚木の方からそろそろ帰る、と言い出した。
「その、あいつ、来るからさ」
「なんだ。どうぞどうぞ。槇さんによろしくー」
「ごめん!また連絡する!必ず!」
会計を済ませて、拝むように両手を合わせた柚木に手を振って送り出した後、リカは暗い夜空を見上げた。
―― 柚木さんと、槇さんがご結婚されるそうですよ。……空井さんはどうしていますか
本当に、空が繋がっているなら、この思いも繋がればいいのにと思う。
―― 空井さんには迷惑かもしれないけど……
どうしてますか。
元気ですか。
一人で、泣いていませんか。
見上げた空に向かって浮かんだ思いを自嘲気味に笑ったリカは、ゆっくりと駅に向かって歩き出す。
1年たったというのに、いまだにリカの気持ちはあの時のまま止まっている。言葉の意味が見つからないまま、ずっと同じ場所に立ち止っている気がした。
ふと、駅に向かう途中で見かけたフラワースタンドが目に入る。
バレンタインに見知らぬ誰かにバラの花をもらっても、少しも心は動かないのに、空を見上げればすぐに揺れる。
あとどれくらいしたら、平気になるのかリカ自身にもわからなかった。
「稲葉。今日、飲みにいかねぇ?」
「えー?今日?」
「何よ?用事あんの?」
いまだに情報局に出入りしている藤枝が、リカの隣のデスクに寄り掛かっている。
後ろの席にいた珠輝は今では、リカと同じ並びの一番端にデスクがあった。
手にしていたボールペンをこめかみにあてたリカは、カレンダーと藤枝の顔を見比べた。
「今日、バレンタインでしょ?私、また誤解で恨まれるの嫌なんですけど」
「バレンタインだから、特定の女の子と出かけない代わりに、稲葉と飲みに行くんだろ?俺の平等な愛を知れ」
知るか、と呟いたリカは携帯を触って今日の予定をチェックする。特別用事もなければ、プライベートの予定もない。
不規則な時間に付き合ってくれる女友達は、だいぶ少なくなった。
「仕方ないか……。あんたのおごりね。私、16時から外だからいつもの店ね」
「了解。じゃあな」
ひらりと手を上げた藤枝がフロアを出ていくと、その向こうで顔を上げた珠輝と目があった。
「珠輝も行く?」
「行きませんよ。ちゃんと予定入ってますから」
そう言うと、最近話題のチョコレートの入った紙袋を見せてくる。珠輝は相変わらず、というより、ギャルギャルしさはだいぶ大人しくなって、最近では本命ができたらしい。
「そっか。じゃあ、また今度ね」
「はい。稲葉さん」
「ん?」
一度はデスクに向いた顔をもう一度上げたリカを見て、首を振った。
「なんでもないです」
「なによぉ。変な噂流さないでよ?」
「わかってますよ。稲葉さんには忘れられな……。すみません」
もう忘れてもいいんじゃないですかと言おうとしていたから、つい口を滑らせた。しまった、とありありと顔に出た珠輝にリカは、ほろ苦く笑って首を振った。
「いいよ。事実だからね」
「稲葉さん……」
「空もみないし、仕事が彼氏で上等」
にこっと笑ってデスクに目を落としたリカは、なんでもない普通のボールペンにふと手を止める。
あのボールペンも、デスクの下に置いていた箱も、もうここにはない。家に持って帰って、奥深くにしまいこんでしまった。
それでも忘れられないでいる自分が、かなり痛い女だという自覚はあったが、最近ではそれも諦められるようになってきている。
―― だって……
髪を切っても、何をしてもダメだったから、忘れることも、考えないことも、諦めた。
「だから、仕方ないんだって」
小さく呟いたリカは、だいぶ器用になった通り、仕事の方へと気持ちを切り替えた。