「ねぇ。なんでうちなの」
髪をしばって、腕まくりをした状態でため息をついているのは白石だ。
「仕方ないでしょ」
「そうね。仕方ないわ」
「わかるけど!わかるけど、買ってくるとかあるじゃないの」
ごく久しぶりに緋山が訪ねてきたのも、冴島が一緒に姿を見せたのも、初めは喜んだが今は違う。
「そんなこと悔しいから。買ってきたら“どうせ忙しかったんだろう”とか“そうだと思った、とか言われるにきまってるじゃない」
「そうよ。忙しいからだろうとか、世間のイベントは関係ないんだとか後輩たちに弄られてる姿なんてみっともないじゃない」
「だからって!なんで私の家で、こんな夜中にチョコ作ってるのよ!!」
白石の家のキッチンもリビングのテーブルの上も今は製菓材料でいっぱいだ。
「チョコだけじゃないわよ。ただのチョコなんてまった馬鹿にされるに決まってるじゃない。“溶かして固めるなら不器用な美帆子でもできるよな”って」
「ただ溶かして固めるだけなんて芸のないことするもんですか。それにね。あの人、こういうのにからめて何か用意しないと最近、ちゃんと食べないんだから」
製菓、というよりも、どう見てもパンを作っているのが冴島だ。
見たこともない袋に入っている強力粉を抱えてきた冴島は、慣れた手つきで材料を計ってこね始めている。
「二人とも!自分の家でやればいいじゃないの!!」
思わず叫んだ白石に、二人がそろって振り返った。
「「それができてたらここに来てないわよ!」」
ぐっと言葉に詰まった白石が顔をしかめて時計を見る。
現在時間、23時過ぎ。
夜勤から日勤を済ませて、今日こそと19時過ぎに家に帰ってきた。
ゆっくりと風呂に入って、ビールをあけて。
そんな至福の時間に二人が急に訪ねてきたのだ。
製菓材料をかかえて。
「緋山先生!久しぶり……。え?冴島さんも?」
「久しぶり。ちょっと邪魔するわよ」
「白石先生、こんばんは」
「えっ、ちょ」
白石が応える前に二人とも強引に部屋に入ると、そこからこの展開だ。
「だいたいね。あんた、あいつに何もしないわけ?」
「えっ?」
目を見開いた白石の目が彷徨って、助けを求めるように冴島を見ると、口角がしっかりと上がった。
「さぞかしあちらでも人気なんじゃないですか?」
「人気って……何が……」
「めんどくさっ!もう、藍沢と付き合ってるんでしょ?わかってるんだからそういうのやめてよ。面倒くさい」
相変わらずの緋山節に首を振った白石が天井を仰いだ。
「緒方さんは?」
「相変わらずよ。でも、リハビリの成果じゃないけど、最近じゃちょっとは料理してるのよ。仕事として」
リハビリしたとしても、緒方の手は元のようには戻らないのはわかってきた。
だが、それでも動かせる範囲で動かして、料理をするようになっている。店を持ったり、店で働くことは難しいが、出張料理人として少しずつ仕事になるようになってきた。
すべてをつくるのではなく、家庭の主婦に作り方を教えながら作ることで覚えられると喜ばれている。
「そっか。よかったじゃない」
「まあね。昔はさぁ。一流店の料理人って口も悪かったし、言い方もね。でも、あれから色々あったし、教える相手が普通の人じゃない?だからこそ、色々勉強になるんだって」
「ふうん」
至極嬉しそうに、そう語る緋山を見ている方も笑顔になる。はっと我に返った緋山が頬を膨らませた。
「な、何よ。別にね?あたしには関係ないんだけど!」
「またまた。すぐそういうんだから」
「ホントだってば!だいたいね。生徒からだって、この前もいっぱいもらっちゃってってチョコ持ってきたのよ?デリカシーないと思わない?!」
それはそれで、緒方なりに黙っていることなく、いただきものとして一緒に食べたかったのではないか、と思ったが、白石と冴島は目をあわせて笑った。
「そうね。だから、今年は自分で作ることにしたんでしょ?」
「そうよ!あたしだってね。やればできるんだから!」
そう言いながら、溶かすためのチョコレートを削る、というよりも、砕く、という方が正しい手付きに白石が顔をしかめた。
「ああもう、そんなにガツガツ削ったら……。もっとこう、くるってなるようにしないと!」
「うっさいなー!いいじゃん、どうせ溶けたら一緒でしょ?!」
「その溶かすにも後で、なめらかにならないんだってば!」
ぎゃいぎゃいと言い合っている横で、手早く生地をまとめてしまった冴島は力を入れてパン生地を捏ねている。
「緒方さんはそういうの、わかってくれるからいいわよね。それに比べて……」
怒りを叩きつけるような勢いに、目を瞬かせる。
「ま、まあ、ね。藤川先生はなんていうか、その、鷹揚っていうか……」
「はぁ?藤川がそんなこと考えてるわけ無いってあんただってわかってるでしょ?どうせアイツのことだから患者さんとか看護師にチョコ貰ったんだー、俺もてもてじゃん?って浮かれてるんじゃないの」
そんなに力いっぱいこねてしまっては、どちらかというとうどんになりそうな気配もしたが、パンを作ることはやったことがない白石は二人の間でただうなずいた。
何年か前にはチョコレート会社が義理チョコをやめようという広告を出したり、彼らの職場では特に、いただきものにはうるさいのだが、それでもやはり、バレンタインという日にのっかって、感謝を伝えたりなにかと思うことは今も変わらない。
そんなもので、と言われそうだが、そんなものでもどんなものでも、いっそ、十円のチョコレート一つでも、分け合ったりすることはちょっとした人間関係の緩衝材にもなる。
男性医師だけでなく、女性医師も含めて看護師たちがお金を出し合って、医局に置いてくれたお菓子もあったので、どうでもいい、とは白石も思っていない。
「……だからね。話は戻るんだけど、なんでうちなのよ!」
「え?だって、あんたもどうせ作るでしょ?」
「やらないから!ていうか、そもそも……」
藍沢と付き合うようになって、自分からそうなったと周りに言ったことはない。
だが、薄々なのか、周りも察していたのか、至極当たり前の事のように思われているフシがある。
冴島には、ふとしたタイミングで話したりはしたが、緋山とあったのは本当に久しぶりで、電話ではよく話していても、お互いにゆっくりというわけではなかった。
だから今更そんな話をするのもなんだか気恥ずかしくて、口ごもってしまう。
「ていうかさ。あんたあたしにはないの?北海道みやげ。この前行ったんでしょ?」
「なんで知ってるの?!」
緋山には話していなかったのに、と冴島を見るがゆっくりと首が横に動く。
「あたしが余計なこと言うわけ無いでしょ?」
あたしが。
わざわざそこを強調したところからすると……。
「藤川先生のおしゃべり……っ」
「藤川だけじゃないから。名取もわざわざ知らせに電話してきたからね。あいつも暇だわ」
ははっと笑う緋山に、白石は、一瞬、口元を歪める。
それはおそらく、口実であって、なかなか理由がなければ緋山に連絡ができない名取のせめてもの行動だったのではないだろうか。
「……名取先生ね。この頃、ますますいいよ。研修で入ってきた新しい先生たちにも丁寧に教えてるし」
「へーえ。あの名取がねぇ」
「うん。短期でうちに来る先生たちは、もうベテランの先生なんかもいるじゃない?でも、名取先生はうちのやり方を伝えながらそういう先生たちの知識とか、技術とかそういうのをちゃんと受け取ってる」
後輩の成長ほど嬉しいものはない。
微笑んだ白石に冴島もうなずいた。
「そうね。指示も丁寧で、きちんと伝えようとしてくれるところがいいわね」
「でしょ?そう思うでしょ?」
「そういうところは、横峯先生はまだもう少しって感じかなぁ」
懐かしい。
緋山が救命で最後に面倒を見たフェローたちの話は、今では少ない共通の話題でもある。
「灰谷は?」
「灰谷先生はねぇ……」
ボロボロにして、周りにもこぼしまくったチョコレートを溶かしているのは白石で、ほとんど任せっぱなしの緋山と、捏ね終えて、発酵まちの冴島と。
女同士、戦友と言う方が正しいくらいの大切な友人たちだ。
変わりない話と、共有する話と、話し始めるとなかなか止まらないのだが、白石が話をそらしても緋山か冴島のどちらかが話を戻してくる。
気恥ずかしさもあって、歯切れが悪かった白石に二人はお構いなしだ。
「そもそも藍沢先生は患者さんからのプレゼントは受け取らないでしょ?」
「それね。あの男、若い子には無駄に人気あるじゃない。ほら、例の女子高生もそうだったけど」
「奏さんね。今は大学生よ。時々、リハビリに来た帰りに覗きに来るわね」
「すーごいね?白石、あんた気をつけないと相当恨まれるんじゃない?バレたら」
そもそも、おおっぴらに付き合いを認めていないのに、すでに既定路線なのは、もうあがいても仕方がない。
「そんな……わざわざ言うようなことでもないし、話したのだって……冴島さんだけなのよ?」
「はぁ?あんた何いってんの?」
呆れ返った顔の緋山は、とうにチョコレートづくりから興味をなくしたのか、勝手にキッチンの冷蔵庫からビールの缶を持ってきた。
「あの藍沢だよ?他にも絶対いるよね」
「そうね。ありえない話じゃないわ」
「ふたりとも、どうしてそう楽しそうにいうのよ!」
まさか自分が嫉妬の対象になるなんて思ってもいない。
そんな白石に、二人は顔を見合わせた。
「「他人事だから?」」
「……」
がく。
そもそも今白石がなめらかにしているチョコレートは誰のものなのか、とか、キッチンで二次発酵に入ったそのチョコレートパンは誰のためのものなのか、とか、言いたいことは山のようにあったが、白石はそのまま黙って手を止めた。
「はい。あとやってね。生クリームも入れたから固めて仕上げすればいいよ」
「あ。ありがと。あんたは?つくんないの?」
「作りません」
淡々と、周りを片付け始めた白石の隣に冴島がたった。
洗い物を片付けている側で白石の顔を覗き込む。
「……ごめん。勝手にはじめて」
「……しょうがないでしょ。ふたりとも相手には見せたくなかったんでしょ?」
「そうだけど……」
ムッとした顔で黙々と片付けていく白石に、流石にまずいと思ったのか、冴島は緋山に目を向けて声に出さずにぱくぱくと口を動かす。
それをみて気まずそうな顔になった緋山はしばらくそっぽを向いたりしていたが、しばらくしてキッチンに歩いてくる。
「……久しぶりだから」
「何?!」
「久しぶりに会いたかったから!あんた、藍沢のこと話してくんなかったし。こういう機会がないといいづらいかなって……」
悪気はなかったのだと下を向いて呟いた緋山の言葉は尻すぼみになり、見かねた冴島が溶かしたチョコレートが固まる前にと、型に流し込んだ。
黙って流しに背を向けた白石は、しばらく腕を組んでいたが、勢いよく冷蔵庫を開いた。
缶ビールを取り出して、カシッとプルタブを開ける。
「……別に怒ってない。私も久しぶりに話せて嬉しかったし。別に……付き合い始めたこと、隠してるわけじゃなかったんだけど、言いづらいっていうか……。ただそれだけ」
「じゃ、なんなのよ?なんであんたバレンタインなのに何もしないのよ」
「緋山先生こそ、そういう女子っぽいこと苦手なのに。私は……、この前、初めて向こうに行って、そのときに買って送ったの。だから別に何もしてないわけじゃない」
ひねくれ者と、素直じゃない者と。
うなずいたり、微笑んだり。
「何を送ったの?」
「むこうって、ほら、有名なチョコレートがいくつかあるじゃない。小樽の紅茶のチョコレートがあたらしくでてて、そんなに甘くないし、後味も良かったから」
「へぇ。いいじゃない」
ぽん、と白石の肩に手を置いた冴島と、残ったビールを飲みながら、笑っている緋山と。
出来上がるまでの時間も、出来上がってラッピングする時間も、どこか楽しみでもある。
きっと、喜んでくれたらいい。
ただ美味しいと思ってくれたらいい。
ただそれだけを胸に。
ハッピーバレンタイン。
— end —