FLEX138~夜の灯り

「ん……」

夕食を終えた後、ゆっくりしていればいいはずなのに、何かが気になるのか、リカは部屋の中をうろうろと口元を押さえて歩き回っている。

「リカ?どしたの?具合でも悪い?」
「ん?ううん……。違うんだけど」
「けど?」

だいぶ安定してきたとはいえ、まだ時々仕事中に具合が悪くなることもあるというのに、妙に落ち着きないのを見れば大祐も放っておけなくなる。
テレビでも見ようかと腰を下ろしていた大祐は、立ち上がった。そっとリカの体に腕を回すと、困った顔をしていたリカが苦笑いを浮かべて大祐を見る。

「ごめんね。大したことじゃないの。応募したいのがあって、気が付いたらもう明日にでも出さないと間に合わないなって思ったから、コンビニに行こうかなって思ったんだけど。でも、今から出るのもなって思って……」

都内に住む、いい年の大人が近くのコンビニに出かけるのに躊躇するような時間ではない。まだ21時になるかどうかで、仕事をしていれば、もっと遅い時間に動いていることもある。

なんだ、そんなこと、と大祐はジャケットに手を伸ばした。

「すぐに俺が行ってくるよ」
「あ、あ、違うの!」
「え?」
「違うの。そのくらい、全然大丈夫だし、自分で行けるんだけど……」

困った顔をして苦笑いを浮かべたリカは、自分から大祐の腕をそっと掴んだ。

「笑わないでね?」

わざわざそんな前置きをしてからリカは手を滑らせて大祐の手を握る。きゅっと繋いだ手を甘えるように軽く引いた。

「あのね。別に一人で行くのは平気だし、なんてことないんだけど、ただ一人で行くのが嫌だっただけなの。私が一人で行くのも、大祐さんが一人で行くのも……」
「え?なんで?俺、平気だよ?」
「そうじゃなくて……」

何時でも平気で出歩けるときもあれば、夕暮れ時でも一人で街の中を歩いていることが不安になる時もある。
地方出身でもないのに、おかしいと自分でも思う。

別に、大祐も怒るわけではない。

なのに、不安になるのだ。一人でいる自由を無くしたわけでもないのに。

「よく……、わからないけど、一緒に行けばいいの?」
「いい?」

肩をすくめた大祐がニコリと頷いた。リカの肩にショールを巻いて、携帯をポケットに押し込むと揃って部屋を出る。
エレベータを降りて、ゆっくりと歩きながら大祐は隣を歩くリカの横顔を覗き見た。

「で?どういうこと?」
「んーと……」

困った顔で誤魔化そうかと一瞬迷ったが、結局リカは素直に口を開いた。

「仕事で夜遅くまで外にいたりするじゃない?」
「まあね?」
「そういう時はね。全然平気だし、何とも思わないのよ。でも、たとえば、帰りに一人で帰ってくるときとか、時々無性にここにいていいのかなって思うの。こんな時間にここにいていいのかなって」

こんな時間に、と言う言葉にふうむ、と話を聞いた大祐が考え込む。それほどリカが遅くなったことはこのところほとんどない。

「不思議なんだけどね。私、ずっと都内だし、今更なにをって思うんだけど、夜、街の中にいるってことがすごく……」
「不安?」
「ん、それがやっぱり一番ちかいのかなぁ。本当なら、夕方には家にいて、夕食の用意をして、大祐さんが帰ってくるのを待ちながら過ごすのが、いわゆる奥さんって感じじゃない。まして、この子が生まれたら……」

赤ちゃんが生まれたら、当然、しばらくの間は産休として休むつもりだったが、その後もやはり家にいるべきなのではないか。
冷静に考えればそんな風に考えてしまうから、ということもわかってはいたが、おかしなもので、一人で家に帰る時さえ、一人は嫌だと感じてしまうのだ。

「……リカ。やっぱり」
「赤ちゃん、嬉しいんだけど。やっぱり怖いのかな……」

いつもしっかりしていて、その細い体には想像もできないくらいのパワーを抱えているリカが、今はひどく頼りなげに呟いた。

怖くないと言えば嘘になるかもしれない。
頭ではわかっていても初めてのことでもある。何度も考えて、わかった時は嬉しくて仕方がなかったのも本当のことだ。

ゆっくりと明るい夜道を歩いていくと、そよ、と風が吹く。

「……はがき、何に応募するの?」
「あ、うん。えとね……その演奏会……」
「え?何?」

気まずそうに顔を逸らしたリカが、近くのコンビニに入りながらやけくそのように繰り返す。

「だから!その……音楽隊の演奏会!」
「……はぁ?!」
「だ、だって!聞いてみたかったんだもの!それに、クラシックとか聞くといいっていうし!」

妙に早口になったリカに半分口を開いたまま何度も頷いた大祐は、リカがレジで往復はがきを何枚か買っている間に、店の中を歩き回って目についた新商品のコーヒーを手に取った。
会計をしようとしていたリカの隣に立ってコーヒーを差し出すと、リカが振り返ったところで先に札を差し出す。

「私が出すのに」
「いいよ。ほかに欲しい物ないの?」
「うん、大丈夫」

丁寧にレジ袋を分けてもらってコンビニを出る。
出た瞬間に大祐がリカの肩を抱き寄せた。

「で?白状しようよ。どこの演奏会だって?」
「……えっと、横浜のほうっていうか……」
「……横須賀」

半分呆れた顔でじろりと見る大祐に視線を逸らす。
くっくっく、と耳元で笑い声が聞こえてきて、リカが顔を上げた。

目尻に涙を浮かべて大祐が笑っていた。

「普通、空自の広報官の奥さんが、一生懸命はがき出して横須賀の音楽隊聞きに行く?それ、当たったら誰と行くの」
「や、それはね。大祐さんが忙しかったら、珠輝でも藤枝でもいいかなって……」

慌てたリカは、微妙な顔つきになった大祐を見て、ますますしまった、と唇を噛む。

「……ごめん、なさい」
「……イイケド」
「ごめ……」

ごん、と頭に手を添えられて、頭と頭をぶつけられる。
アスファルトの誇り臭さと、土埃に草の匂いが微かに交る夜風の中、マンションを目指して歩く。

「いいから。内緒で応募しようとした罰として、もし当たったら、俺と一緒に行くこと。いい?」
「いいの?」
「うちの奥さんは、ややこしくて可愛い人だなぁ。佐藤さんならまだしも、藤枝さんはないデショ?」

あたったらね、と繰り返した大祐の手をぶん、と大きくふって、リカが笑みを浮かべた。

―― ほらね?

こんな風に、ほんの少しの時間にも、もっと一緒にいたいと思わせてくれるから、一人の帰り道が嫌になるのだ。まるで子供みたいだと笑われても仕方がない。
二人で歩くなら夜の灯りもとてもきれいに見える。

「ねぇ、リカ」
「ん?」
「ちっちゃな不安でもなんでもいいから、今日みたいに話してくれると嬉しいよ。俺、わかってるつもりでもわかってないことが多いと思うから約束、してくれる?」
「約束、なんだか増えそうね」

今は二人だけの約束でも、きっとこの夜の灯りのように、これから一つ一つ小さな約束が増えていくだろう。

投稿者 kogetsu

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