「今日で東日本大震災から4年になります。各地では……」
淡々と手元の原稿を読み上げながら、この原稿を読むようになってから4年たつのかと思う。
午後の番組と番組の間の5分程度の短いニュース番組が終わって、マイクを外すとネクタイを指一本だけ緩めてフロアに移動する。この後の仕事は夜の特番のナレーションまでは打ち合わせや会議だけだからだ。
「藤枝さん、お疲れ様でした」
「お疲れ様でした」
スタッフと挨拶をしてアナウンス部へと戻る途中で、情報局のフロアに立ち寄る。
吹き抜けを囲む廊下を歩いて、勝手知ったる仕切りのない情報局フロアへと足を踏み入れた。珠輝や知り合いのADたちに声をかけながら、フロアの隅に置いてあるコーヒーメーカーから勝手にコーヒーを淹れて、フロアの中を見回した。
この部屋もあのころとはレイアウトが違う。
―― あの日、あの時間。俺は別のフロアでナレーション撮りをしてたっけ……
狭い防音室の中で揺れを感じた瞬間、続座にドアを開けたのは今でも正しかったと思う。
普段ならそうしなかっただろう。
あの時はなぜか、強くなる前の揺れの段階で体が動いた。
ミキサーの前に立った時には揺れは大きくなって、開け放したドアの隣や廊下の方からは崩れる荷物や、落ちる機材の音と、悲鳴とそんなもので溢れていたはずだ。はずだ、というのは自分自身、そのあたりの記憶が鮮明に覚えているのに、音だけは思いだせないからだ。
「……結構はっきり覚えてるもんだけどなぁ」
ガラスの窓の外を眺めた藤枝はフロアのデスクへ視線を走らせた後、コーヒーのカップを持ったまま廊下に出る。吹き抜けに出るガラスのドアを開けて、まだ冷え切った風の吹く表に出た。空気はまだ春にはなり切れず、頬には鋭い冷気がぶつかってきて、曇った空を見上げるとあの日のようだと思う。
そう思ってから思い直す。
―― あの日の天気ってどうだったっけ……
被災地の方は、雪がちらつくほどの寒い日だったとは覚えているが、東京はどうだっただろう。
ただ、寒かったことだけは覚えている。外の様子を取材するために、カメラと共に、局の外に飛び出して、中継をしたからだ。
騒然としていたのは町の中もビルの中も同じで、都内の高いビルはまだ揺れがおさまらないのか、見上げると揺れているような気がした。
女性社員は泣きだしている者が多い中、よそのビルからは非難のために多くの人がビルの外にあふれ出ていた。
とにかく、余震があるからとすぐに中に戻って、スタジオにいるスタッフもほかのみんなもヘルメットをかぶったままで放送に入る。情報は錯綜していて、次々と入ってくるまとまりのない情報をとにかくスタジオから伝えるために誰もが必死だった。
ずっと、CMも何もないままで、延々放送し続けること。
間隔が麻痺して、時間の感覚よりも、使命感だけで体か動く。
まともに目を向けていられない画像はどんどん裏にいるスタッフが放送できないと判断してお蔵入りになっていったはずだから、局には残っていても放送していないので、藤枝も見てはいない。
ネットの情報はチェックしていて、普段使っているタイムラインだけでは追いきれなくて、仕事用にもう一つとっさに立ち上げた。
そんなスタッフも何人かいて、分担して目についた情報を片っ端から確認に走ったのも、もはや、誰かの指示を受けてる暇などないと判断して各自がそこここで小さなチームができて、連携していくのをみて、俺はまだ頑張れると思ったのだ。
普段、色んな嫌なことも多くて、組織としてもっと違うだろうと思ったり、不満の方が多かった気がする。それがあの時、人の力と、組織の力をまだ信じていけると思ったんだった。
湯気の上がっていたコーヒーはプラスチックのカップだからかあっという間に冷えてきて、肩口から全身に寒さが沁みはじめる。
飲み終えたカップをゴミ箱に放り込んだ藤枝は、さみぃと呟いてパンツのポケットに手を突っ込んで廊下へと戻った。
今は休んでいる同期もあの震災がなければ、もしかしたら後2年早かったかもしれない。あれほど泣いて、苦しむこともなかったかもしれない。
震災は、思い出すたびに、それにまつわる出来事のすべてに関わっている。
夜になって、特番の生ナレーションを終えた藤枝は、鞄をもって局からでた。かつてなら、同僚を呼び出して、飲みに行くか、女の子たちの誰かを誘っていただろう。
入り口を出たところでスマホを取り出して、慣れた操作でタップした。
電話をする前に相手の様子を確かめる習慣もだいぶ慣れてきた。
『仕事終わった。そっちはどう?』
仕事柄、驚くほど反応が早い。すぐに返ってこない時は、会議中かどうしても手が離せない時で、そんな時でもすぐに状況がわかるアイコンだけでも送ってきてくれる。
『終わってる。職場出たところ?』
今なら電話しても問題がないと思った藤枝は、すぐ番号をタップした。
「もしもし」
「今どこ?」
「今?まだ、局でたばっか……」
だよ。
そう言いかけた藤枝は、その先が言えなくなった。
かつて、リカを待っていた大祐がそこにいた場所に、座っていた朋が振り返る。
「……なにしてんの」
ひどく間抜けな声が出てると藤枝自身も思ったが、思い切り気が抜けた声が出てしまう。
―― 人間って、驚くとほんとに
「今日の予定は聞いてたし、ずっと話に聞いてたからやってみようかなって」
「……やってみようかなって、なにしてんの。やってみようかなって……。空井君は男だったからいいけど、朋さんはっ」
間抜けな声を上げていた藤枝は、我に返って駆け寄った。肩に手を置くと、すっかり冷たくなっていることに気づいて慌ててジャケットを脱ごうとした手を朋が止める。
「こんなおばさん、大丈夫ですって。いつも言ってるでしょ?でも、私も生まれて初めて出待ちしたかも」
携帯をしまった朋の手を握ると指先が冷たい。
反射的に心配と待っていたことを知らなかった自分がその間、何をしていたかと思うと、つい怒り出しそうになって黙った。
「……関係ない。なんかあったらどうすんの」
今までは自分が終わってから連絡することばかりで、女の子を待たせたことなどなかったことも余計に拍車がかかる。
―― こんな日に……
そう思ってから、朋がなんで待っていたのかと思った。
「聞いていい?」
「なに?」
「あの日、朋さんは何してた?」
だから、一人で帰るのが嫌だった?
その問いかけに朋は、首を振った。
「藤枝さんがどうしてたかも聞きたいなぁ。今日は、そういう日だからね」
らしくないと自分でも思ったが、一瞬くらい、許されるかなと思ったのも同時で。
その場で、朋をぎゅっと抱きしめた。
人目につく場所でこんな真似をするなんて自分も変わったなと思う。
「明日、仕事は?」
「いつも通りだけど……、今日は話したいね」
沢山、今は、傍にいられるようになったから。積み重ねてきたこの時間をただ、一瞬交差するものじゃなくて、傍に引き寄せたいから。
「……帰ろう、一緒に」
たくさん、話したいから。
話そう。何度でも。
— END