「つ……かれたぁ……」
思わず口から漏らしてしまうほど今日のリカは疲れていた。部屋に帰って、誰もいない部屋に入って、バックを置いて。
会社と家の往復の毎日にうるおいも憩いもほとんどない。家に帰ってすることと言えば、持って帰った資料を読むか、持ち帰りの仕事をするか、録り溜めた資料のビデオを見るくらいだ。
その間に、時々ストレッチをしたり、アロマキャンドルを炊いたりすることもあるが、ごくたまにのことでほとんどの日は部屋の飾りにしかならない。
今日は特に疲れたから何もしたくなくて、食事をとる気にもなれなかった。
ソファの上にどさっと倒れこんだリカは、そのまま目を閉じる。
「……駄目だ。お風呂入んなきゃ」
このままじゃ寝てしまう。それでも起き上がりたくなくて、しばらくそのまま倒れこんだ後、律儀に起き上がった。22時までにはお風呂のお湯を溜め終らないと、近所迷惑になる。
シングル向けのマンションなんてそんなものだ。規約で縛られている。
バスタブにお湯を張っている間にメイクを落として髪を束ねた。
―― こんな日に、彼氏でもいたらきっと守って抱きしめてくれるのかなぁ。
今日一日、何をしたのかよく覚えてないくらい、朝、席に着いたところからものすごい勢いで問い合わせの対応や、急ぎの仕事や、次々とこなしすぎて、くたくただ。
誰かと、他愛のない話をしたい。
疲れたんだよって、頭ではわかってるけど、頑張ったねって褒めて欲しい。
小さなささくれが、大きな棘になる前に。
―― なんて、そんな乙女チックなこと私のキャラじゃないしね
軽やかなチャイムの音と共に浴槽に湯が溜まって止まる。畳んでいた着替えに、タオルを手にすると、バスルームにむかった。
浴槽に香りのいいバスソルトを落とす。
歳をとって、よかったと思うことは、こうして 疲れたなと自覚した時に、上手に自分を誤魔化して休む術を身に着けたことだ。
ざーっと熱めのシャワーで体を流して、ボディソープを泡立てる。体を洗って、そのまま、メイクを落とす。
メイクと言ってもリカはナチュラルな方だからあっさりと洗い流して、全身に湯を浴びた。
バスルームの中もシャワーで流した後、浴槽に足をつける。
皮膚の上から熱が伝わってきて、体の内側まで香りと温度に癒されていく。
目を閉じてしまうと、そのまま眠ってしまいそうだったから、湯気の中をふわふわと手を動かした。
「ん~ん~んん~、ん、ん~ん~……。こーんな、いつか王子様みたいな全身全霊で抱きしめて、守ってくれる人と出会えるのかなぁ」
こんな夜だから、いつもなら思わないことを思ってしまう。
彼氏なんて、不規則で忙しい仕事をしていたらわずらわしいくらいなのに、我ながら、我儘で勝手だなぁと思う。
「私の恋人は仕事です、ってね」
これ以上入っていたら、間違いなく寝てしまうと思って風呂からでたリカは、バスタオルで体を拭いて着替えると、冷たい水だけを飲んでベッドに潜り込む。
――……いつの日にか王子様が
目を閉じてリカは自分自身にないだろうなと思いながら言い聞かせた。
「大祐さん?」
そっと揺り起こされて、目をあけた大祐は、あれ、と目をこすった。
「珍しいね。転寝してたよ」
「……そっか」
目をこすっていた手をそのまま額の上に乗せて、目を閉じる。なんだかさみしいようなそれでいて、心地いいような夢を見ていた気がする。
「どしたの?夢でも見てた?」
「ん……。なんだか……覚えてないけど、どういう夢だったかな」
ふうん。
ぽつりと呟いたリカは、目を閉じていた大祐にそっと触れるだけのキスをする。
ぱち、っと目をあけた大祐の目の前の長いまつ毛をみて目を瞬いた。
「起きた?王子様もキスで目を覚ますんだ」
「目は覚めたけど……。俺、王子様なの?」
「内緒」
ソファに横になっている大祐の傍に肘をついて覗き込んでいたリカを腕を伸ばして抱きしめて、それでもなんだか距離がある気がして、腰のあたりから上手に抱え上げて横になっている自分の上にリカを引き上げた。
「重いでしょ?」
「重くないよ。お姫様」
「なにそれ。わかってないくせに」
すぐに乗ってきた大祐の鼻先を摘まむと、軽く頭を振って指を払われた。
「わかるよ。白馬の代わりに元戦闘機に乗って、しかも迷子になって遅刻した王子ですけどいいですか?お姫様。……今更、だめって言われても困るけど」
―― 全身全霊で包み込んでくれるくせに
こういう時だけは妙に気弱なことを口にする。大胆なくらい男っぽい一面と、くるくると入れ替わる顔が目を離せない人。
昔は、誰かにこんなに惹かれるなんて考えられなかった。
出会って、惹かれて、苦しんで、愛した。
あの日、こうしている今を想像できただろうか。
「2年も遅刻した王子様?」
「そう……。お詫びは残りの一生でどうでしょう」
「どうしようかな」
くすくすと笑いながら、もう一度、リカからキスをする。
「何ならこのまま抱き上げてぐるぐる回ろうか?」
馬鹿ね、と笑うリカの手を取ると指輪をした薬指に大祐がキスした。
――…… kiss you are mine