ひそひそと、このところリカの周りでは何かを囁くような素振りを見せる者たちが多い。
初めはリカも気にしていなかったが、さすがにここ数日は何かしただろうかと周りに顔を向けるくらいだ。
「何?」
「あ、いえ。なんでも」
にこ。
少し慌てたような笑顔に首をひねる。
しばらくして携帯にともみからメールが入った。
『ちょっと来なさいよ。4Fの吹き抜けにいるから』
―― 何?珍しい……
仕事中にともみから連絡が来ることなど滅多にない。嫌な予感がして渋々席を立ったリカが吹き抜けのデッキに向かうと藤枝とともみが顔を突き合わせて難しい顔をしていた。
「何よ」
あ、来た、と呟いたともみが長い髪をばさっと払った。
「リカ。あんたいったい何やってるのよ!」
「何?何の話?」
いきなり噛みついたともみと藤枝の顔をきょろきょろと見比べていると、藤枝が割って入る。
「落ち着けよ。いきなりじゃ稲葉もわかんないだろ」
「だって、もうこの人いったい何回こういう騒ぎをすれば気が済むの?!」
「いいから落ち着けって。稲葉。お前、例のあいつ。あれじゃないのか?」
何が何だか話が分からなくて、ちょっとまって、とリカは二人の顔を見た。
「何の話だか分からないってば。なんなの?」
「お前、ここんとこ噂になってるの、気づいてないのか?」
「噂?噂って何?」
ほら、と携帯を見せられたリカはがん、と頭を殴られたような気がした。
藤枝の携帯には、藤枝と密着して談笑するリカの姿。実際の距離はもっと離れているのに、角度からしてひどく接近して見えるように撮られていた。
「な、なに?これ……。あ!これ!!」
一体何枚あるのか、わからないが、どれもこれも、想像をさせるような写真ばかりだ。
「この前取材してるときに、話してた時の……」
「馬鹿!お前、あれだけあいつには気をつけろって言っただろ?」
「阿久津さんには言ったわよ!身の回りだって気を付けてるし、二人になったりしたことなんかないもの」
みるみるうちに青ざめていくリカに、ともみも眉間に皺を寄せたまま、少しだけトーンが下がる。
「それ、あちこちの社内MLに流れてるわよ。いかにもな煽り文句がついてて。情報管理部が止めたみたいだから何日か前からもう削除されてると思うけど」
各自が受信したメールボックスもパソコンの中ではなく、サーバに繋がっているのはセキュリティ面でも厳しいからだが、おかげでその不穏なメールも今は削除されているという。
「差出人は高柳だろうな。MLのアドレスを差出人にしてるみたいだけど」
「そんな……。ひどい」
「まあ、この手の誹謗中傷のたぐいはな。一応皆ある程度慣れてるから、スルーしつつ、面白がってる程度だけどよくはないだろ」
リカの手から藤枝が携帯を取り戻すと、腕を組んだともみが藤枝の顔を見た。
藤枝の方はもともと社内でもチャラい印象を振りまいていて、そこそこ遊ぶ相手もいるがスキャンダルになるほどではない。そのイメージが定着しているだけにあまりひどい話にはなっていないが、どちらかと言うと分が悪いのはリカの方である。
だいぶ前になったとはいえ、リカのPVのときの騒動を覚えている者たちもいるし、そのリカが結婚したことは知られていて、その上でこんな一見、不倫とも受け取られかねない写真が出回るのはいただけない。
「あんた、その高柳っていうのに目を付けられてたならちゃんと言えばよかったじゃない。いい年してそのくらいの対処もできないの?」
「そんなこと言ったって……」
「とにかく、これ、そろそろ上の方にも噂、聞こえてるわよ。表だって責められない分、気をつけなさいよ」
「……わかったけど」
困惑した顔のまま、途方に暮れているリカに苛立ったともみが首を振った。
「当分、藤枝と一緒にいるのはやめなさいよ」
「やめろって言っても仕事よ?取材だってまだあるし」
「あんたが外れるか、藤枝が外れるか。その高柳っていう男を使わなきゃいけなくなるでしょうね」
藤枝もそこはわかっているのだろう。頷いた藤枝が周囲に目を向ける。わざとこの場所を選んだのは廊下から丸見えと言うこともあった。密会ではなく、同期三人が集まっていると見せるためでもある。
「次の取材は海自だろ。俺は次の街角グルメにはあたってないしな」
「木曜日だけど……」
「とにかく、お前は傍に珠輝ちゃんを必ずおいて、一人になるな。誰相手で撮られるかもわからんしな」
頷くだけは頷いたが、頭の中は混乱していた。
「わからない……。こんなことして何になるっていうの。出られたとしても情報番組の一つでしかないし、キャスターの藤枝とは何も一緒にはならないのに?」
「リカには……わからないわよ」
「……だな」
藤枝とともみには高柳の行動が理解できた。自分たちがするかしないかではなく、底辺にいて這い上がるためには何でもする、ということでしか動けない人種がいるということだ。
「なんで?」
二人に向かって食い下がるリカに、ともみも藤枝も、首を振った。
「なんででもいいからお前はとにかく気をつけろ」
「そうよ。リカにはわかんないだろうけど、世の中にはそう言う輩もいるってこと。あんただって報道にいた時に、嫌ってくらいそういう人たち見たでしょ?スクープ撮るためならどんなことでもって。そういうのと一緒よ。そこに理由なんかない」
―― 納得いかない……
納得はできないが、とにかく、いまは二人の言うことに頷くしかなかった。
わかったと頷いて、新しく藤枝が登録したというメールとメッセージアプリのIDを登録すると、とぼとぼと重い足を引きずって自分の席へと戻っていく。
どうしてだろう、という言葉だけが頭の中をぐるぐるとまわる。
「あ、戻ってきた。稲葉さん!」
「何?」
「電話、入ってます。……広報室の比嘉さんから」
珠輝に言われて、自分の席に戻ったリカは回されてきた電話に出るために受話器を取り上げた。