「あー、コーヒーでも持って来ればよかったですね。昨日はちゃんと用意したのに」
「そうでした。昨日はご馳走様でした。美味しかったです。それに夜遅くまで色々……」
「あ、あっ、それはもう忘れてください!昨夜は、つい調子に乗って飲んでしまって……」
かあっと赤くなる頬を隠すように両手で顔を軽く叩いたリカは、空井に見られないように、窓の外へと視線を向けた。明るい陽射しの下で出歩いている人々も多い。それを見ているだけで浮かれた気分に拍車がかかる。
「いや、でも嬉しかったですよ。リラックスしてくれてて」
「空井さん、全然かわらないんですもんね」
「自分だって、酔っぱらったら変わりますよ。昨日は飲んだ量が少ない方ですから」
「そうなんですか?」
男が多い職場を連想すれば確かにたくさん飲みそうではある。
「男同士なんか限度あってないようなもんですからね。空幕のみんなは、ほどほどのところで帰りますけど、昔は吐くまで飲んだりしたこともたくさんありますよ」
流れるような運転は、助手席に座っていても安心して乗っていられた。
「すごい。空井さんもそんなに飲まれるんですね」
「もう今じゃ全然飲めないんで、ちゃんとセーブしますよ」
第一京浜をまっすぐに走っていくと、途中から雰囲気がガラッと変わってくる。海の方向を見ていると、羽田に離発着する飛行機が時々見えた。
時折、リカの方へとちらりと視線を向けながら大祐はカーナビの案内で混雑を少しずつ避けながら車を走らせる。どこかでコーヒーかいっそランチを食べる場所と思っていたが、昨日に続いた好天のせいか、妙に道路が空いていた。
「稲葉さん、途中でどこかと思ったんですけど、思ったよりスムーズにつきそうなので、そのまま向かっちゃっていいですか?」
「はい。横浜のどこに向かってるのかはわかりませんけど、空井さんに全部お任せします。駄目なときは、ちゃんと言いますから」
「助かります。じゃあ、そのまま向かいますね」
横浜に入ったあたりからよく見る建物が見え始めてくる。
駅のあたりを通り過ぎて、マンションや住宅街が多くなってくると、カーナビを見る回数が増えた。
「すみません。場所はわかってるんですけど、いつもは高速を使ってきちゃうので、来る方向が全然違って……、あ、もう大丈夫です」
大祐の横顔を見ていたリカが不安になっていると思ったのか、何度か、信号で止まるたびに、申し訳なさそうに大祐が顔を向けた。
「いえ、それはいいんですけど。どこに向かってるんですか?」
「もうすぐ着きますよ」
「三溪園?」
「ええ」
細い住宅街の道を入っていくと、そこだけがにぎわっているようで、右手に入り口らしき建物、左手に駐車場が見える。
空井は駐車場へと車を入れると、日陰になる場所へと車を停めた。
「はい。到着です。お疲れ様でした」
「はい。ありがとうございます。私、ここ、初めてです。どういう……?」
「僕も、車でどこかって思って見つけたところなんです。まずは行きましょう」
そういって車を降りると、入り口の方へと向かう。券売機があって、入場券を買おうとしたところでリカが、手を出した。
「私が出しますから」
鞄から財布を出したリカを大祐がニコリと笑って止める。
「いえ、僕が出します。今日は僕がお誘いしたので任せてくれる約束ですよ?」
「……でも、昨日の駐車場代もガソリン代もまだ」
払ってないのに。
少しの困惑と、意地の強さを垣間見せたリカが言いかけた言葉に頷いて、空井は自分の財布を取り出した。
「それはきちんと後でお知らせします。これは別です。……デートですから」
最後だけ、リカの顔を見て言えなくて、券売機を向いているという情けない自分になんでだよ、と内心では突っ込んだが、チケットを買う。
出てきたチケットを一枚リカへと差し出した。
「はい。どうぞ」
「……ありがとうございます」
入り口で、チケットを切ってもらって、園内の案内パンフレットをもらう。
早速広げたリカが、えっ、と声を上げた。
「こんなに広いんですか?」
「そうなんです。だから、結構ぼーっとできる場所も多くて、ついつい時間が立っちゃうんですよね。とりあえず、食事処もあるので、そっちの方へ行ってみましょうか」
ゆっくりと歩き出した空井について、リカも歩き出す。
足元をちらっと見た空井は、ごく自然に手を伸ばした。
「あの、よかったらその靴じゃ歩きにくいかもしれないので……。すみません、気が利かなくて。先に言えばよかったですね」
「あ、全然気にしないでください。私、この靴でどこにでも結構取材にいっちゃうので。……でも」
伸ばされた手に白い手が重なる。
申し訳なさそうにしていた空井が目を丸くして自分自身の手を見た。
「……デート、ですから」
恥かしそうにそう呟くと、リカの方が先になって歩き出す。
一度だけのキスと、手を繋いだことと、それから何かが変わるのかと思ったが、結局何事も変わることがなかった空井が今日はデートだと言ってくれたから、淡い期待を持ちたくなる。
「……なにか?」
一瞬、驚いた顔をしていた空井が、ぱっと嬉しそうに笑った。指を組み合わせた繋ぎ方に変えた後、くいっとその手を引く。
「いきましょうか」
足元を気にかけながら、目の前に大きな池を見て歩き出す。左側に山を見上げながら小道を歩くと、それが順路と言うわけではないのだろうが、同じルートで歩いていく人が多い。小さな神社を見つけて階段の下からそっとリカが手を合わせた。
何度か足を運んでいる空井は、小さく目礼を送る。
池の真ん中に行ける赤い橋があったがそちらではなく、古い寺の建物がある方へ向かった。
「どういう場所なんですか?」
「うーん、正直僕もあんまり詳しくないです。パンフレットに書いてあるみたいに、昔の金持ちがこういう古い住宅や建物を移築したってことくらいかな。でもここ、海が近くて晴れていてすごくぼーっとしているのにはいいんですよね。別にこういう古い建物が特別好きだってわけじゃないんですけど」
「なんか、その感じわかります。横浜にこんなところがあるなんて知らなかったけど、いいですね」
写真が好きなら、きっといいショットが取れるに違いない。そんな場所を歩いていくと、小さな茶屋が見えてくる。
「僕、ここの中で食べたことなかったんですけど、いくつかお店があるのは知ってて、食べてみたかったんです。ここ、どうですか?」
待春軒と書かれた店の前にはいくつかメニューが並ぶ。
急にお腹が空いてきて、リカは頷いた。
頷いて、空井が先にのれんをくぐる。席に案内されると、表の緑に大きな池までが見えるいい席に案内される。
「はぁ……。ここ、写真撮りたくなりますね。きっとすごいいい画がとれるかも」
「ああ、そうですね。そう言う場所多いですよ。桜もすごいみたいだし」
「なるほど。こういう場所なら、季節ごとによさそうですね」
店の中も表も、空井が連れてきてくれた場所だというのが嬉しい。きっと一人で足を運んでいた場所に連れてきてもらったのだと思うと、本当にデートらしくて、ドキドキしてくる。
「稲葉さんは、こう休みの日にふらっと出かけるような場所、ありますか?」
「うーん……」
空井が湯飲みを持つ手を見ながらリカは、自分の休みを思い浮かべた。