Honey Trap 32

額の怪我はすぐに血が止まったこともあって大したことはなかったが、頭を庇った腕はひどいことになっていた。利き腕ということもあって、少し動かしただけでも腕は痛む。
今更そんなことにも気づいたくらい、リカも動揺していたのかもしれない。

「……痛っ」
「そりゃあ、当たり前ですよ。こんな怪我を女性がしちゃいけません」

医務室の隊員が手当をしながら呆れたように言う。
手当が終わるまでずっと背後に立っていた大祐は、ずっと口元を引き結んだままだった。

手当てが終わって、戻ろうとするリカを廊下に出たところで大祐が呼び止めた。どうしようかと迷いを見せたのは一瞬で、すぐに廊下で呼び止めたリカの肩に手を置いた。

「稲葉さん。戻る前にちょっといいですか」
「はい」

結果的に額は絆創膏一つで済んでいるが、腕はしばらくは痛むだろう。
そんなことをして、取材班だけではなく、撮影班のほうのスケジュールまで変更させて、高柳にやらせて結果がこれかと。口をだすべきではないとは思ったが、さすがに黙っていられなかった。

「……何やってるの。リカはどうしたいの」

周りに人がいないことを確かめてから呟いた大祐をリカが見つめた。リカと大祐の立場が逆だったとしたらその気持ちは当然ともいえる。

「……仕事をしてるだけ」
「もう仕事じゃないでしょ。周りに止められても聞かないし、いいの、それで」

ディレクターという彼女の仕事をどこまで正確に理解しているかはわからないが、それでも、あの場はもっと早く判断するべきだったはずだ。
あちこちにあの男一人のために迷惑をかけて頭を下げるなんてありえない。
高柳に向かうのとは別に、リカに対しても腹立たしさがあった。

「それは……。いえ、確かにだ、……空井さんのおっしゃる通りだと思います。言い訳はしません」

これから午後のスケジュールを立て直すのだと聞いて、これ以上、今、ここでリカを責めても仕方がないと思う。
むうっと押し黙った大祐に頭を下げて、ご迷惑をかけました、と言うリカがひどく遠く感じられた。

「……ほかはともかく、その怪我は」
「戻って上司の判断に任せますので」

立派な傷害だと言いかけた大祐を遮って、リカは踵を返して、建物の表にいる取材班や撮影班のところへと戻って行く。
少し離れて後を追いかけた大祐には、納得のいかなさだけが残った。

昼の休憩を長めにとった後、午後は高柳抜きの分を予定より遅れて撮影し、空模様が変わる前に早めの撤収になった。そこは複数日、基地の撮影スケジュールを調整してあったのが幸いでもある。

撤収の際に、撮影班にも頭を下げたリカは同じく、比嘉と大祐の元にもやってきた。

「本日は、大変ご迷惑をおかけしました。明日もご協力お願いいたします」
「いえ。こちらこそ、明日もよろしくお願いします」

いつもの穏やかさで応えた比嘉と共に、同じ角度で礼をとる。夕暮れの風景は使わないために屋内の撮影を入れても時間は早めに終わっている。もっと遅ければ、そのまま帰るのかと聞くところだが、この時間なら一度リカは局に戻るだろう。

報告をかねて。

大祐がそう思っていると、リカの方から口を開いた。

「私はこれから取材車で局に戻ります。今日の報告もありますし」
「そうですか。では、お気をつけて」
「はい。ありがとうございました」

もう一度礼をいって、リカは坂手達が待っている取材車に乗り込んだ。比嘉達の見送りを背に、白いワゴン車はゆっくりと走り出した。

「稲葉」
「何」

車の中には藤枝も乗っている。
納得がいかないのは大祐同様に藤枝も同じだった。初めからわかり切った事をあえて周りの制止を振り切った格好のリカのことを、また暴走した、と。そんな風にしか思えないでいる。

それを釈明しろと思うのは当然だった。まして今日は、帝都テレビとしても、撮影班にも、キリーにも多大な迷惑をかけたことになる。

「お前、今日のあれはないわ―。間違いなくない。ディレクタ―失格っていってもおかしくないだろ」
「そう。それはいいから明日の分もよろしくね」
「はぁ?明日もくそもねぇよ。わかってんのか?お前」

―― わかってるわよ

胸の内でそう答えたリカは黙って窓ガラスに寄りかかる様にして表の景色に目を向けた。
局までは夕方のラッシュよりは気持ちだけ早いがそれでも結構かかるだろう。じっとしている分には湿布がきいたのか、今は痛みがひどくない腕にもう片方の腕を添えた。

局に戻った時には帝都イブニングはもう終わっている。ただ、戻ると連絡を入れていたので阿久津はまだ待っていてくれた。

「お疲れさん。すぐにやるか」
「はい」

鞄を置いたリカはすぐに手帳とハンディと手にして阿久津と共に奥の会議室に入った。

「大丈夫か。その腕」

顔もか、と付け加えた阿久津に痛いです、と率直に口に出す。

「労災申請は向こう側と話してからだな。穏便にと言われた場合は……」
「その時はその時で考えます」
「そうか。じゃあ、始めてくれ」

頷いたリカがハンディを会議室に置かれているテレビにつなぐと、再生を始めた。

投稿者 kogetsu

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