夕焼けの朱と夕闇の藍 22

正直なところ、寂しいと思うことはほとんどない。

だが。

―― こんなにも人を恋しいと思うなんてなかった

「寂しいは、正直ありませんね」
「そうですよね。空井さんにはどこにいても飛行機がありますもんね」

そう言われて、空井は夕日の中で乾いた匂いを思い出した。コンクリートの上に焦げたオイルの匂いと、高周波で聴力を奪う音。
確かにいつどこにいても、あの場所へ記憶だけは立ち返ることができる。

そう思うとリカには帰る場所がないような物言いに聞こえてきて、胸が詰まった。

それから何も言わずに、何も聞かずに車は走って行って、リカの家へと近づくと、空井が口を開く。

「稲葉さん。どこかお店ありますか?……稲葉さん?」

ちらりと隣を見ると疲れてしまったのか、リカは目を閉じて眠ってしまったようだった。
困ったな、と思いながらひとまずリカの家の近くで大通りの停車できる場所に車を止める。

助手席に眠るリカをもっと見ていたい気がする。

―― 昨夜も可愛かったなぁ。子供みたいな顔で寝てて、まつ毛だけすごく長いなぁって思ったんだった

いつまでもこうしていられるわけではないとわかっているからこそ、見ていたい。

すっと伸ばした手が宙を彷徨って、結局、どこにも触れずに空井の膝の上に落ちた。

「……稲葉さん。稲葉さん」
「……っ!あっ、ごめんなさい!!」
「いえ。大丈夫ですよ。疲れたでしょう。このまま帰りますか?」
「え」

気遣わしげな空井の顔を見てしまうと、嫌だとは言えなくなる。うっかり眠ってしまったからこそ、空井に気を使わせてしまった。

もう少し一緒にいたかったのに。

「そう……ですね。空井さんにもご迷惑ですよね。じゃあ、ここで」
「あ、いや、そうじゃなくて。それに、家までお送りしますよ」
「すぐですから。ここで大丈夫です。ありがとうございました」

ばちんとシートベルトを外したリカは、助手席のドアを開けた。
逃げるように車から降りたリカは、車の中の空井に向かって精一杯の笑みを浮かべる。

「空井さん。せっかくのお休みをすみませんでした。ありがとうございました。またPVの方が出来上がったら教えてくださいね」

雨上がりをようやく撮影したPVは今、編集の真っ最中である。
音入れやナレーション撮りが終われば完成のはずだ。

「あの、稲葉さん!」
「じゃあ。ありがとうございました」
「いな」

空井が言い終わる前にばんっとドアを閉めてしまったリカは、車の外からも頭を下げると自分の家に向かって歩き出す。
疲れた足を引きずる様に、自分が寝てしまったことを猛烈に悔やんでしまう。
これなら、無理を言ってでも空井の家に押しかければよかったかもしれない。

大通りから後ろを振り返らずに歩き出したリカを慌てて車を降りて走り出した空井が駆け寄ってその手を掴んだ。

「待って!稲葉さん」

ぱっと掴まれた腕に振り返ったリカの顔が今にも泣きそうな顔だったから、余計にそれは空井の背中を押した。

「なにか、誤解してますよね。自分、まだ帰したくないです!少しでも長く稲葉さんと一緒にいたいですけど、疲れさせたり、無理はさせたくなくて、でもまだ時間も早いし、できれば夕食だけでも一緒に食べたいんですけど、駄目ですか?!」

駆け寄った勢いのままでそう叫んだ空井に、リカは目を丸くしていたが、ぽつりと呟いた。

「空井さん……。手……」
「手?」

はっと気が付くとリカの腕を強く掴んでいたわけで、慌てて空井は腕を外して、両手を合わせる。

「申し訳ありません!!つい……。このままじゃ稲葉さん、どっかに行っちゃいそうで」
「どっかって……。家ですけど」
「……あ。そう……ですよね」

気まずそうに足元に視線を落とした空井の手をリカは手を伸ばしてそっと掴んだ。

「やっぱり、空井さんの家では駄目ですか?私の家はもう知ってらっしゃるし」
「あ……あの。えぇっ?!」
「駄目ですか?」

リカから繋がれた手と見上げた視線がまっすぐに空井に突き刺さる。

空井さんの家に。

本気でリカがそれを言っていたなんて思ってもいなかった。男の家に、女性が上がるというのは普通ならそれなりの意味を持つ。
リカがそれもわかったうえで行動しているとは思えなかった。

「稲葉さ……」

一緒に連れて帰ったら、帰せるだろうか。
そう思いながらも、そのまま振り払って帰ることなどできなかった。

リカの手を握り返すと、空井は車へと大股で歩いて戻る。助手席のドアを開けてリカを車に乗せた。
フロントを回って、運転席に乗り込むと、すぐに車を動かす。

走り出した車の中で空井は何も言わなかった。

投稿者 kogetsu

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