「頼む!!俺のことも連れてってくれ!!俺をあの村から出してくれ!」
「なっ、ちょっと待てよ。なんだよ!」
「ずっと思ってたんだ。俺、もう嫌だ!あの村で、ノクスに見下されて、家畜みたいにこき使われて、そんなんじゃなくてもっとちゃんとキュリオがいる街に行ってちゃんと暮らしたいんだ!」
それは、鉄彦に向けられたものだと察したからこそ、森繁はその場を動くことなく、黙って後ろで成り行きを見守った。
「渋井……」
「ずっと、ずっと思ってた。外はどうなんだろうって。外に行ったら、絶対、俺はもっと違う人間になれるんだって!鉄彦が来てくれたのはチャンスなんだ!鉄彦は色んな町に行くんだろ?ずっとじゃなくていいんだ。どこか、俺が住めるような街があったら」
「渋井!!」
その場に両足を踏ん張って拳を握りしめた鉄彦は渋井の話を断ち切る様に叫んだ。
「駄目だ。お前を連れてはいけない。これは俺達の旅で、お前の旅じゃないんだ」
「なんでだ!いいじゃないか。次に行く街まででもいい、それでもいいんだ。なぁ」
「違う!お前が村を出たいなら、お前の力で出なきゃ意味がない。お前があの村を嫌だったら変えればいい。それもしないで村を出るなら、せめて自分の力で村を出て、自分で街を見つけていかなきゃ駄目なんだ!!」
八区を飛び出した自分と森繁のように、自分たちで、たくさん考えて、自分たちで何かを犠牲にして、何かを得るために走り出す。
人の手を借りてではなく、自分たちの力で。
あのまま、何も変わらない、ノクスとキュリオの狭い世界に留まっていることなんてできなかったから。
「そんなの変わんないだろ?!どうやってでも俺はあの村を出たいんだ!!」
「だったら!!」
鉄彦は、渋井が来た暗い闇の中の道路の方向を指差した。
「向こうに向かって道路を歩いて行けばいい。夜が明けて、足にマメができても、ずっと歩いていけばどこかの街にはつくだろ?」
「……なんっ……でだよ!!こんなに頼んでるのに!!」
見下ろした鉄彦の前で、渋井は何度も自分の膝を拳で叩いた。
きっと、二人が車に向かうところからずっと後ろをついて歩いて、車が走り出したら、走れるだけ走って、方向だけがわかってからはずっと暗闇の中をひたすら耳と目を澄ませて歩いてきたのだろう。
鉄彦たち以外の、追手やよからぬことをたくらむ者がいないとも限らない。それに、獣の類だっていないとも限らない。
そうしてようやく灯りを見つけて近づいて、鉄彦に追いついたというのに、どうしてこうも頑なに拒否されるのか、渋井にはわからなかった。
「……渋井さん?よかったらこれ、飲みますか」
湯気の立ったカップを森繁が差し出した。ミルクも砂糖も入っていないブラックコーヒーだ。
森繁がノクスであることはわかっていたから、森繁が近づいてくると、土下座をしていた渋井は身を低くして腰を上げた。じり、じり、とカニのような姿で少しずつ後ろに下がる。
「あ、これはさっき買ってきて入れたばかりなので大丈夫ですよ。僕らはお互い食器を使ったら、必ずきれいに洗ってるので、どっちがどっちのカップを使っても大丈夫なように……」
体液でも触れたらと警戒している様子の渋井に、丁寧に説明を始めた森繁の手を鋭く、渋井は払った。
取っ手を人差し指だけで引っ掻けるようにして持っていた森繁の手からカップが落ちて、地面にコーヒーが吸い込まれる。
「……お前なら、何か違うのかと思ったのに……。結局、ノクスの下で特別に扱われてるだけのキュリオじゃないか!!」
明るければ、涙でぐしゃぐしゃの顔を鉄彦に向けて、叫んでいた渋井の姿が見えたかもしれないが、鉄彦にはほとんど見えはしなかった。
砂利の音をさせて足音がその場から離れていく。
「もったいね……。もう一杯入れるから、お前も飲むだろ?」
その場に立ちすくんだままの鉄彦に声をかけると、地面に落ちたカップを拾い上げる。テントの端の方でカップに水をかけてきれいにすると、コーヒーを注ぐ。
「ほら。来いよ。お前まで俺が淹れたうまいコーヒーを無駄にすんなよ?」
俯いたまま、テントを背にするようにして森繁の傍に立った鉄彦はぬっと手を差し出した。
「うまいよ?お前の淹れる紅茶もうまいけどな」
黙って頷いた鉄彦はカップを手にするとその場にしゃがみこんだ。
「それ飲んだら、少し眠れよ。お前、いつもならとっくに寝てる時間だもんなぁ」
「……俺、あんなの……」
「ん?」
両手でカップを包み込んだ鉄彦の隣に胡坐をかいて座り込んだ森繁は、全く変わりがないような声を上げた。
「俺……。ああいうの嫌だ。ノクスが特別なのもキュリオがあんなふうに扱われてるのも……」
「……うん」
「今まで見てきた街も、どっかそういうとこあったけど、ここは……」
「……そうだな」
嫌だ。
鉄彦の頭の中を占めていたのはその言葉で。
どう言えばいいのだろう。どう伝えればいいのだろう。そんなことはないと。そんなのはおかしいのだと。
ノクスもキュリオも、今の世の中ではどちらかだけではやっていけはしないのだ。それなのに、はりあったり、どちらかがどちらかを差別したりを繰り返している。
もとは何も変わらない、同じ人間だというのに。
「……俺……。あいつ、連れてってやればよかったのかな」
唇に触れた瞬間、その熱は予想を超えていて、あち、と舌を噛みそうになった森繁は、ふーふーっとしてからコーヒーを飲んだ。
「いんじゃない?俺は、お前が連れて行きたいんだったらそれもよかったけど、でもお前が違うって思ったんならそれが正解だろ?」
「正解なんて!!」
顔を上げた鉄彦は、じっと目の前のコンロの火を睨みつけている森繁を見て、言葉を切った。
「正解が……わかるんだったら……」
「そんなの誰にだってわかんねぇよ。ただ、お前はそうしたかった。俺は、あの村から早く離れたかったし、お前以外の奴を連れていく義理もないしな」
おどけて言う森繁に頷いた鉄彦はコーヒーを口にした。
「にがっ」
「馬鹿。うまいだろ?何にも入れない方がコーヒーの味がわかるだろうが」
「苦いものは苦いよ!砂糖とミルクは?!」
「ばっ!!お前のいつものコーヒー牛乳みたいな奴にしたら絶対許さないぞ。俺、泣くぞ!!こんないい豆もったいない!絶対!そのままで飲むこと!」
珍しく森繁がぴしゃりと怒って叱りつけてくる。叱りつけるというより、脅しに近かったが、そう言われた鉄彦はしぶしぶ、苦いコーヒーをすすった。
「……なんでこんなに苦いんだよ。匂いはいいのに」
「だろ?香り、いいだろ?なかなかないんだぞー。だからいい豆と悪い豆も選り分けてきっちり淹れてみた」
苦い、と口にするたびにぼやきながらも鉄彦はコーヒーを飲みきった。
「これで眠れなくなったらどうしてくれる」
「ならねぇよ。お前、紅茶飲んだってがーがー寝てんだろ?」
空になったカップを差し出した鉄彦は、車とテントの両方を指差した。
「で?俺どっち?」
「そうだな。明日はゆっくり出ればいいから……。お前車で寝れば?」
「いや、それだと夕方になるまでお前はテントから動けなくなるから、やっぱ俺がテントに寝る」
両手を開いた森繁にもう一度、むくれた顔のままで頷くと、森繁はテントの方を素直に勧めた。
「後片付け、よろしく」
「おう。お休み」
テントの中にもそもそと潜り込んだ鉄彦は、ノクス用の完全日光遮断のテントの中で膝を抱えて丸くなった姿勢で横になった。
「……森繁」
「んー?」
テントのすぐ外にいるから声が返ってくる。
「俺……。お前が友達でよかったよ」
「馬ー鹿。さっさと寝ろよ」
「うん。お休み」
しばらく、かちゃ、かちゃという音がして、まだ森繁がコーヒーを淹れている音がする。こぽこぽと湯を注ぐ音と、それからしばらくして静かな中で、地図を広げているのか、時折紙の擦れる音がした。
―― 明日は晴れるかな……。腫れるのは俺の顔かな……
森繁の気配を感じながら、鉄彦は目を閉じた。
―― 俺、本当に森繁と友達になれてよかったよ……
—end