「どうぞ、ゆっくりしてください」
「は、はい」
「足、崩してくださいね」
緊張しながらなぜか今、大祐はリカの部屋の中でソファに腰を下ろしていた。
大祐にはスリッパを出してくれたが、リカはつま先で歩いているのか足音もさせずにフローリングの床の上を忙しく歩き回っている。
「あ、あの、稲葉さん。やっぱり……」
「もう、空井さん。しつこいです。さっき買い物も一緒にしてきてるじゃないですか。私こんなに食べられませんよ?」
何度もここから帰るべきだと思って、断りを口にするがそのたびにリカに却下される。
―― やっぱり!部屋に上がる前に断るべきだった!
というのも、部屋の中は時々リカの体からふわっと香るいい匂いで溢れていて、これではリカに囲まれているようなものだ。
しかも、座っていてと言われて腰を下ろしたソファもふわふわで手触りがよく、それさえリカに繋がっていて居心地が悪い。
―― いや、居心地……は、悪いか。そりゃ、恋人同士だったら幸せなんだろうけど、これは辛い……
そもそもなんでこうなったのか。
時間が遡ること二時間程度……。
昼がドイツ料理だったので、なにか違うものをと思いながらリカを連れて案内板へと近づいたのだ。
「あ。稲葉さん、和食はどうですか?」
「なんでも大丈夫です」
「じゃあ、行ってみましょうか」
そういって、店のある場所を目指して移動する。大祐にとってはたいしたことはないが、やはりリカは少し疲れているように見えて、どこかでゆっくりと思う。
店の場所まで歩いていくと、時間が時間だけにそこそこの列がもうできていた。
「あー……。ちょうどいい時間ですよね」
「どうします?待つのもいいけど……」
腕時計を見ると、仕事明けならまさに今から飲み始めるような時間だ。
もう、ほかの店を探しても似たようなものだろう。もう少し早く動けばよかったと大祐が思っていると、リカが大祐の手を引いた。
「空井さん。もしよかったらうちに来ませんか?持ってきてくださったシャンパン、一人じゃ飲みきれないし、たいしたものを用意できるわけじゃないんですけど、テイクアウトで家飲みとか」
「えぇっ?!稲葉さん、それはちょっと……」
「だ、誰にでもこんなこと言うわけじゃないですよ?空井さん、今日一日付き合ってくれたし、少しでもお礼したいですし」
「や、でも……」
女性の家に男が向かうというのが素直に頷けない。速攻で頷けば期待しているようにも見えるだろうし、そんなことは誘惑だと思うくらいには男である。
だが、リカはリカで、大真面目な顔で大祐の腕を引く。
「私、空井さんを信じてますし、大丈夫です」
―― 大丈夫って何が?!いや、信じてくれなくても!!
全力でそう思ったが、さすがにそれを口にはできない。
繋いだ手は離さないが、にやけそうな顔を隠すために口元を手で覆う。顔も赤い気がしてなんとも複雑だ。
とはいえ、ここで断って店を探し歩いても仕方がない。しばらく考えた大祐は、わかりました、と頷くことにした。内心の葛藤はさておき、疲れたであろうリカを送り届けるのに否はないからだ。
たとえ部屋に入ったとしても、これだけ力説されていたら不埒な真似はできないわけで、それならいっそ、家まで送るのもいいかもしれない。
「……やっぱりあの時送るだけで帰ってれば」
小さく呟いた大祐の目の前には、近くのスーパーのデリで買ってきたものがきちんと皿に移されて並べられている。
ほっとリカが頷くのを見て、手を繋いで駅へと向かう。本音を言えばもっと一緒にいたいと思ったが地下鉄を乗り換えて、今日リカを迎えに行った駅まで向かう間も、企画の甘いところ、こういうのはどうだろうか、と話す姿が楽しくて。
なし崩しに帰ると言い出せないまま、最寄り駅のデリで食事を買った。
「稲葉さん、よく買うんですか?」
「べ、別に料理くらいしますよ!」
「ああ。そうですけど、ほらリカさんの仕事だと時間が不規則だからかえって作るのも大変じゃないかなと思って」
「それは、そう、ですけど」
サラダとつまめるものをいくつか並んで選ぶ。
荷物は大祐が持って、駅から歩く。
恋人同士なら当たり前の姿かもしれないが、そんな瞬間に大祐は内心動揺してしまう。
―― 新婚さんってこんな感じかなぁ……
気が付けば女性の部屋に上がるというのも申し訳ないと思う気持ちより、リカの部屋ということで浮かれるほうが強くなる。
ついついそんな風に浮かれたことを考えていると、なりゆきで部屋の前までついてしまう。
そして今こうして座っているわけだ。
「あのー……」
「お待たせしました!グラス、これで」
大祐の目の前に瓶とグラスを差し出されると、仕方なく手を伸ばした大祐はシャンパンの栓を開ける。
ポン、と軽い音がして炭酸が弾ける音をグラスに注ぐ。二つに注いだ後、瓶を置くと立ち上る泡が見えた。
「乾杯、しましょうか」
「はい。じゃあ……お疲れ様でした、っていうのも変か……」
「それじゃちょっと……。でも、そうですね。お疲れ様でした。お付き合いありがとうございます」
ちん、と軽くグラスをあてて、ほんの一口分のシャンパンを飲み込む。柔らかな炭酸は日ごろよく飲むビールよりも甘くて、この部屋の空気と同じで大祐の落ち着かなさをもっと増した。
食べてください、と言われても緊張で味が分かったようなわからないような。
「空井さん、遠慮しないでくださいね。私、こんなに一人じゃ食べられませんし」
「……ありがとうございます」
「だって、空井さん。シャンパン、コレ、私一人で飲むと思ってたんですか?」
―― そーですね。酒と花って……そりゃ、恋人同士ならいい雰囲気になるだろうけどさ
項垂れた大祐が黙々とシャンパンをあける。
それなりに酒には強いほうでもあったから、この程度のアルコール度数で、この程度の量で酔うわけもない。
「……すみません。気が利かなくて」
「あ!違うんです。別に、空井さんが悪いっていうわけじゃなくて……」
「わかってます。わかってますが……」
正直、この状況は辛いとしか言い様がなかった。
好きな相手と一緒にいて、楽しかったのも事実で、これが恋人同士なら楽しいだけでなく、そんなつもりがなくても胸の底がざわつくのは仕方がない。
だが、今の大祐とリカはただの仕事相手であり、少しだけ親密なだけだ。
そのほんの少しの親密さが危うい。
テーブルの上の料理を半分ほども片づけただろうか。
「空井さん。お酒、足りないですよね。ビールでも」
「いりません」
「でも」
たわいない会話。
でも、その距離は親密なほどの距離で。
なんとか閉じ込めようとしていた凶暴さが顔を出しそうになる。
リカは無防備なのか、天然なのかわからないが、テーブルをはさんで直角に座っていたはずなのに、今はほとんど大祐の隣にいるようなものだからだ。
「稲葉さん」
「はい」
「誘ってるんですか?」
「え?」
何を言われたのかわからない、と一瞬の間があいたのをみて大祐は立ち上がった。
「あの」
「ごちそうさまでした。片付けなくてすみません」
呆気に取られているリカから視線を外して大祐は、すたすたと玄関に向かう。我に返って慌てたリカが後を追いかけると、玄関で靴を履いた大祐がドアに手をかけて振り返った。
「空井さん!私、何か失礼なことを」
「違います。別に怒ってるわけじゃありません」
「じゃあ、どうして急に帰るなんて……」
困った顔のリカを見ると少し気が咎めたが、逆にリカに全力で拒否されるよりもこの方がまだいい。
迷って、握りしめられる前の手がリカの困惑そのままだな、と思いながら大祐はドアを押し開けた。
「稲葉さん。もし、クリスマスに本当に一緒にいる機会があるとしたら、次は帰りませんから」
「え……」
「じゃ。忘れないでくださいね」
ふっ、外気との温度差で風が流れたのと変わらないくらい一瞬で目の前のドアが閉まる。
「……え。……えぇっ?」
クリスマスに本当に一緒にいる機会があるなら。
「い、今、『次は帰りませんから』って言った?!」
話の前後がおかしいのはいつものことだが、今日は随分、空井のエスコートぶりにリカの内心は振り回された。
かっこよくて、女性に縁がないといっていたことなど嘘じゃないかと思うくらいで、そのたびに心臓が飛び出しそうなくらいドキドキしたのだ。
本当はキラキラしたイルミネーションも何もかも、うっかり本当にデートしているのかと勘違いしそうに何度もなった。
「……ひどい。どう思ってるんですかって聞きたかったのはこっちなのに、そんな言い逃げみたいなのあり?!」
そこにはもう大祐はいないのに、玄関ドアに向かって馬鹿っ!と叫んで睨んでいたリカはしばらくしてようやく鍵をかける。
まさかその向こう側で離れがたい思いで大祐が立っていたとも知らず。
かしゃん、というロックの音を聞いてようやく大祐は深いため息を吐き出した。
帰りたいわけがない。
あのままいたら、手を伸ばしかねない。
というよりも、そのまま腕を伸ばして抱きしめたい。
「……はぁ」
深く息を吐きだした大祐はドア越しに聞こえたかすかな声に胸が締め付けられそうな気がする。
いつか。
そんな日がくるのか。
――……
「大祐さーん」
「何?」
ひょい、と顔を見せた大祐は、自分を呼んだはずのその人の姿がないので、手をぬぐってキッチンを覗き込んだ。
「どした?」
「ごめん。ちょっと手を借りたい……」
「あああ……!」
今年のケーキはシフォンケーキを焼いて、そこに生クリームをのせようと話していた。生クリームを絞るために絞り出しに入れたところで手が足りなくなってどうしようもなくなったらしい。
今にもこぼれそうな生クリームと、ボウルに手を伸ばす。
危ういところに置いてあったボウルを押さえて少し離したところに置きなおす。そして、先から零れだしていた生クリームを片手で受け止めた。
「リカさん、入れすぎでしょ。これ」
「だって、一度絞ってから足すとべたべたになるかと思って……」
「それでパニクってたらしょーがないでしょ」
手のひらで受け止めた生クリームをペロッと舐めて、フリーズしていたリカの顔をのぞき込む。
「ん?」
「ううううん、なんでもない!」
「何」
スポンジに下地は塗ってあって、あとはデコレーションするだけになっていたから絞り袋を大祐が押さえて絞りやすいようにする。
「……クリスマスだなって」
「何、急に」
くすっと笑い出した大祐に目を合わせられず、ケーキを見たままで小さく呟いた。
「今は、クリスマスで帰らないで一緒にいるなって」
ああ、と何を言ってるのか分かったのだろう。口の端をきゅっと上げた大祐は少しだけ頭を落としてリカの耳元に近づく。
「帰らないよ?」
「……っ!そういうの、だめっ。馬鹿っ」
「ひっで……」
ペロッと耳のふちを舐められたリカが悲鳴を上げる。
「ははっ。ほんと弱いよね」
「~~大祐さん!!」
「ほら、クリームが溶けるよ?」
固めに泡立てたはずの生クリームが柔らかくなっている。少し冷蔵庫で冷やしたら、と言いながらリカの腰に腕を回した。
「冷やしてる間に少し休めばいいよ」
「……言い方がやらしいです」
「男なんで」
「何ですか!その言い……!」
あの頃が想像できないくらいあっさりと、キスして離れた大祐を睨みながら、冷蔵庫を開ける。
―― この人のロックオンする目から逃げられた頃が嘘みたい……
簡単にはもう今は逃がしてくれないし、随分わがままを言うようになった大祐にリカのささやかな抵抗などあってないようなものだ。
「だって、やっぱりクリスマスって浮かれるし。ぎりぎりまで仕事でどうなるかわかんなかった人が一緒にいてくれるし。そりゃね?」
そういって、あっさりとリカをさらっていく人は今、この部屋の住人である。
あり得ないは。きっと、いつか、あり得るに変わる。
— end