携帯のアラームで目を覚ましたリカは、すぐに起き出して、化粧と支度を済ませると、時間に余裕を持たせながら表に出てタクシーを拾った。予想通り、空車で流しているタクシーがいて、それに乗れば東京駅もすぐである。
緑の窓口で矢本までの切符を買うと、すぐに新幹線に乗り込んだ。
まだ眠かったが、新幹線は停車駅の少ないものだから、およそ1時間半で到着する。車内販売でサンドウィッチとコーヒーを買ったリカは、さっさとお腹の中にそれらを流し込むと、ガラガラの車内で目を閉じた。
仙台駅で仙石線に乗り換えながら家を6時台に出たのに、この時間なことに妙な焦りを感じてしまう。
仙台までなら近いのに、さらにその先まではこんなにも遠い。
ようやく矢本駅にたどり着いたリカは、なんだか追い立てられるような気持ちで足早に官舎に向かった。
何棟かあるうちの大祐の部屋があるところで立ち止って上の階を見上げる。車はあるようだから部屋にいるのだろうと思うと、ようやくほっとして笑みが浮かんだところで、リカの表情が凍りついた。
大祐の部屋のドアが開いて、大祐が出てきたと思ったらもう一人、背の低い女性が部屋から出てきたのだ。
とっさに階段の陰の自転車置き場の奥に身を隠したリカは、頭の上の方から響く階段を下りる音に、全身の神経を向けた。
「とにかく、……一度帰って、服を着替えて……。朝帰り……で」
「送っていくから……。……にしても、俺にも責任があるし……」
「奥さん……じゃないですか」
奥に隠れているから切れ切れな単語でしか聞き取れないことがますます、冷や汗が滲む。
まさかそんなところにリカが隠れているとは思いもしない大祐と、相手の女性は何やら話しながら車の方へと向かって歩いていく。
「リカにはちゃんと話、するから」
びくっ。
その一言だけは妙に鮮明に聞こえた。大祐の怒っているような真面目な声がして、身動き一つできないリカを襲う。
「空井一尉は……ですね」
「そうでもないよ。本当に大事な人以外、どうでも……」
バタン、と車のドアが閉まる音がして、それからはエンジン音しか聞こえなくなる。リカと一緒のときはエンジンを温めるのに時間をかける大祐だったが、今日は、少ししてすぐに車は走り出した。
よほど近いのか、11時近いから温まっているのかはわからないが、車の音がしなくなるのを待ってリカは隠れていた陰から出る。
正直、呆然としていて、何をどう考えればいいかわからなかったが、とにかくその場から離れなければならないと思う。
来た道を足早に引き返して、矢本駅の前でバスを待つこともできず、その場にいたタクシーに乗り込んだ。
「東松島駅まで」
「はい」
すぐに走り出したタクシーの中で、リカは自分の手を見て初めて震えていることに気づいた。
ほんの偶然が重なって、電話できない日が続いて、それから大祐の携帯が壊れて。
たったそれだけのことのはずだったのに、どうして今自分はここで、朝一番に駆け付けた場所から逃げ出しているのだろう。
滞在時間はものの5分にも満たない。
それなのに、この場所にはいられなかった。
みてはいけないものを見た気がして、今すぐ東京へ飛んで帰りたいと思う。
頭の中が真っ白で何も考えられない。
―― 全部は聞き取れなかったけど、朝帰りって言ってた。大祐さんは責任をとるとも言ってたし、ちゃんと話すって言ってた……
浮気なのだろうか。
いや、大祐なら、そんな軽い気持ちで行動するはずがない。
大祐を信じていないわけではないが、あのシーンだけを見てしまっては何をどう考えていいのかもわからなかった。
仙台で一度、頭を冷やすことも考えたが、ホテルをとって、一泊して帰るだけと言うのもなんだかとても辛くて、結局リカは仙台駅に着くと、そのまま帰りの新幹線を押さえて、ホームに滑り込んできたはやぶさに飛び乗った。
二人掛けの一番端の窓際に座ったリカは、バックを抱えて、シートを倒すと、窓側に頭を持たせかけた。
「……」
無意識に、ぼろぼろと涙が浮かんで、頬を流れていく。
頭の中では、誤解だ、誤解に決まっている、と次々、大祐を擁護するもう一人のリカがいるのに対して、今泣いているリカはいまだに呆然としている。
リカよりも年下に見えた女性は、秋恵のように、小柄で可愛らしいタイプに見えた。
「……嘘でしょ……?やだな、もう。何、私、勝手に泣いちゃってるの……」
止まらない涙に苛立ったリカは頬を伝う感覚が嫌だったから、袖口でぐいっと涙を拭ったが、止めどなく流れる涙はちょっとやそっとでは止まりそうになかった。
東京駅に着くまでに、泣くだけ泣いて、落ち着いたリカは東京駅から電車を乗り換えて家に帰った。
朝一番に家を出たのに、夕方になる前に家に戻ってくるとは思っていなかったが、あのまま仙台にいるよりはよかった気がする。
部屋に入って、バックを力いっぱい放り出したリカは、ぱんぱんっと思いきり顔を叩いた。
部屋の真ん中で。
一人。
立ったまま動きを止めたリカは、大きく息を吸い込んだ。
結婚したから大丈夫、だなんてことはなくて、ただ、大好きでいる、大好きでいてもらうための努力を忘れないで共に歩いていく、そういう約束でしかない。
考えれば考えるほど、不思議と落ち着いた。
大祐を信じているし、先週から今週までの間に、新しい出会いがあって心を動かされたとしても、大祐ならきちんと向き合ってくれるはずだ。
もしそうなら大祐がはっきりと言った時に泣けばいい。
そうじゃないなら泣くなんて大祐にも失礼な気がした。まるで信じていないのだと言ってるようで。
「よし!」
自分に言い聞かせるように呟いたリカは、髪を束ねて着替えを済ませる。何か気持ちを切り替えられるものと考えて、キッチンに立った。
材料を確かめて、つくれるものを先週まで出していたお菓子の本を開いて、考える。
チョコレートがまだのこっていたから、ブラウニーを作り始める。これなら切り分けて週明けに局に持って行ってもいいだろう。
時間をかけて、丁寧に材料を計って、それでも、ブラウニーならすぐできてしまう。
残った材料を考えると、アイスボックスクッキーを作り始めた。
部屋の中には甘い香りが充満する。
無意識に、何度もリカは左手の薬指に触れて、くるくると回した。
山のように、ラッピングしたお菓子の山を作ったリカは、その日は怖くてPCを立ち上げられなかった。