第二回 理想と現実の狭間
空模様が怪しくなってきて、ただじっと座り込んでいた高橋さんは唐突に立ち上がった。
―― どうされました?
「帰ります」
―― ご自宅ですか?ご一緒に行ってもよろしいでしょうか
「……どうぞ」
ジャケットの襟元まで深く閉じられた姿が、今の彼の心のように思える。
歩き出した彼に続いて私たちも歩き出した。都内、大きな駅の近くの便利もいい場所にある小さなマンションに入る。部屋の中は男性にしてはきれいに片づけられていて、少し意外な気がした。
―― きれいにしてらっしゃるんですね
私達スタッフを招き入れてくれた彼は、小さなテーブルを前にインスタントだがコーヒーを淹れてくれた。
「僕、習慣っていうんですかね。仕事でそうしていたから、家の中もきちんと片づけてないと落ち着かないんですよ」
―― なるほど。それほど身についていらっしゃるんですね
「ええ。おかしいですよね。それなのに、自分はもう職場に行くこともできないんです」
彼は、そう言いながら、この取材が始まってから一度も私達と視線を合わせてくれたことはなかった。
―― お仕事は、どのくらいお休みされてるんでしょうか?
「そうだなぁ……。4か月になります。3月になれば半年です。半年休んだまま……」
そんなふうに言った後、ぽつりと彼は、どうしてこんなことになっちゃったんだろう、と呟いた。
彼は、起きられなくなった後から、職場に行くことができなくなり、結果としてそのまま休職になっている。
寝坊した。
そう思った朝、慌てて職場に向かおうと携帯を握りしめたが、電話をしようと思うと手が震える。そうこうしているうちに職場の上司から電話がかかってきたがそれも出ることができなかった。
―― その日のことは今も覚えてらっしゃるんですか?
「もちろんです。今もわからないんですよ。僕、自分がどうしちゃったんだろうって今も思いますよ。仕事はやりがいもあったし、まだまだ先輩たちに教わることもたくさんあったし、厳しいけど、望んだ仕事だったんです。このままずっと、定年が来るまで勤めるんだろうなぁって思ってたんですよねぇ」
彼の話によれば、結局電話にも出ない高橋さんを心配した上司が部屋まで来て、様子を知ったらしい。手が震えて電話にも出られなかったのだという彼の様子を見た上司がとりあえず医者に行こうと言って、一緒に医者に連れて行ってくれた。
しばらく仕事は休んだ方がいいとその場で診断されて、家に帰された。面倒を見ようとしてくれた先輩の様子が納得できなくて、追い返したこともはっきりと覚えている。
「僕、今でも納得できてないんです。仕事を休んだ方がいいって言われても、1日休めばその分、取り戻すのに何日もかかるんです。でも行っちゃ駄目だって医者からも職場からも言われてるので仕方がないんですけど」
彼はそんな風に不満を漏らしたが、それだけ体力に自信がない彼にとって、訓練は辛いものだったのだろう。取り戻す時の苦労がわかればわかるだけ、ますます職場にはいけなくなる。
私たちは、彼が働いていた職場にも話を聞きに行っていた。
「彼は非常に真面目で……そうだな。完璧主義と言えばいいんでしょうか。頭はすごくいいと思うんですよ。だから、体力というか、運動全般が得意じゃない自分が思うようにいかなくて、理想と違う自分が許せなくなったんじゃないかと思うんです」
体育会系の職場らしい上司と先輩からそんな話を聞いた。
自分の目標をクリアしていなかったわけではない。だが、高い理想と現実との間で、身動きが取れなくなったらしい。ただ、彼の場合は、未だにその狭間を認めることができないでいる。
彼にとって、彼が身に着けていた制服は、それほど重かったのだろうか。
それとも、親の期待や友人たちの視線、そんなものが重かったのだろうか。
「先輩は、いつでも戻って来いって言ってくれてるんです。僕も戻りたいんですけど」
本人以外は、もう復職は無理かもしれないと思っている。だが、本人が一番認められないのだろう。
―― ご自身ではまた同じお仕事に戻りたい?
「もちろんです。自分が向いていないなんて思いません」
―― そうですか
私達は、その日、それ以上のことは聞かずに彼の部屋を後にした。彼が、どうやってこれから、自分と向き合っていくのか、とても気になっていた。
その彼はひどく顔色が悪かった。もうすぐ終わりますから、と言ってからどのくらい立っただろうか。
忙しくしている彼が私たちの前を通るたびに、もうすぐ終わります、を繰り返す。それだけ彼が忙しいことは十分わかったが、待っている私たちもすでに昼を過ぎて何時になるかわからない彼を待っていた。
堂本雄一さん(仮名)
まだ若手医師の一人である彼は、都内近郊の公立病院の医師だ。研修医ではない。
そんな彼は、朝勤務に就くとほとんど食事をとる暇さえなかった。
「お待たせしました」
疲れ切った顔で、我々の前に立った彼は私達を職員用の食堂へと誘ってくれた。
「お腹すいたでしょう。申し訳なかったです」
もうすぐ、もうすぐと言われていたので、私たちも昼前から待っていて、今は15時過ぎである。
―― 確かにお腹がすきましたね。堂本さんは毎日こんな感じなんですか?
「いえ、今日は皆さんが取材に来るとわかっていたので、周りにも調整してもらってます」
今日は特別なのだという彼の顔に、私たちは顔を見合わせる。そういわれてしまうとそうなのかと言うしかないが、それにしても大変な職場だ。
「仕方ないんです。患者さんは具合が悪くて待っているわけですよ。少しでも早く診てあげて楽になればそれに越したことはないですから」
そういうと、私達にも奢りますよ、と言ってくれたが、丁重にお断りして食堂のカウンターに並んだ。まばらにスタッフがいる。
堂本さんはうどんのカウンターに並んだが、私たちは、空腹に負けて、ご飯とみそ汁、それにおかずのセットをトレイに載せて、会計を済ませた。
テーブルに着くと、待っていてくれた堂本さんが、私たちの分もお茶を用意してくれていた。
―― どうもありがとうございます
「いえいえ。さ、食べましょうか」
そういって、箸をつけた堂本さんの勢いに私たち再び驚くことになる。ずずっとそばをすするような勢いでうどんをすすりこんだ堂本さんはあっという間に私たちの目の前で食べ終えてしまった。
「どうぞ、気にしないでゆっくり食べてください。僕、もう習慣なんで」
そういわれてもなかなか忙しい彼を待たせていることが申し訳なくなって、急いで食事をかきこんだ。
―― すみません。食べながら聞かせてください。お仕事をおやめになるそうですが。医師という職業を辞められるんですか?
「ああ。医者はやめませんよ。とりあえず、この病院を辞めて、しばらく体を戻してからまた働こうと思ってます」
私達が食べ終えるのを待ちながら、彼はそんな話をしてくれた。研修医時代からの無理がたたって、体調を崩してしまったという。
「医者の不養生って言いますよね。まさにあれですよ。僕、今健康診断したらボロボロですよ」
そう言って笑う。目の下には黒々としたクマが浮かんでいて、顔色も悪かった。
時折、倒れそうになることもあるらしく、もうどうにも立ち行かなくなったらしい。
―― どうなんですか?具合は……
「この生活を続けている間はどうしようもないですねぇ」
堂本さんはそう言いながら、ポケットから薬を出すとお茶で飲んでしまった。
―― お茶で薬を飲んでいいんですか?
「はは。患者さんには駄目だって言うんですけどね。自分はやってしまうんですよねぇ」
笑いながら手の中でプラスチックの湯飲みを転がす。ガラス窓の外に目を向けた彼は眩しそうに目を細めた。
「……もっと……僕なんか、くたくたでもよかったんです」
ひっそりと呟いた堂本さんは、子供のころからの夢だったんですよ、と小さな声で呟いた。
怪我をした人を治してあげる、具合の悪い人を治してあげる。
子供の頃、お医者さんごっこなんてふざけて一度や二度、あるかもしれないが、子ども心にそれが嬉しかった。だからいつも医者の役を進んでした。それがそのまま彼の夢になった。
子供心に尊敬した医者。
誰かの助けになれる医者。
苦しいことも、夢見た世界に挫けることはなかったはずだ。
だが、実際にその世界に身を置いてみたら、自分を裏切る現実が待っていた。
限界だと思いながらも、患者さんが来れば動いてしまう。そして若手医師にはそのほかにもやるべきことが山のようにあった。
「悔しいですよ。何のために、大変な思いをして医者になったんだろうって。こんなことになるはずじゃなかったんです」
同級生の中には、実家が元々病院で、もっとうまくやっている医師もいるらしい。だが、堂本さんは大きな病院で働くことを選んだ。
大きな病院には大きな病院にしかできないこともあるという。
「休養したら」
―― 休養したら?
その先を言おうとした堂本さんは、何かを言いかけたまま口をあけて固まった後、くるりと私たちの方へと顔を向けた。
「今、薄着ですよね。病院の中、暑いですか?」
―― いえ……?
「じゃあ、そんな格好だと肩が凝りますよ。姿勢も悪くなるし、未病って言うでしょう?血行が悪くなるっていうのは体の中の流れのすべてが滞るんですよ」
気を付けた方がいいですね、と言ってから立ち上がって、もう一杯熱いお茶を運んできてくれた。
ほんの少し。私たちは、制服から卒業しようとする彼らを取材する中で、あとほんの少しだけ、何かが違っていたら変わったかもしれない運命が、切なく見えた。
誰にでもあると言えばある。そんな少しの理不尽と、少しのタイミングの悪さや、積もり積もった何かが傾いてしまった。
そんな彼らの新しい始まりに、私たちはエールを送りたかった。
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