「せっかくのお休みだし、ちゃんと支度するから待ってね?」
ゆっくりめに起き出した後、気恥ずかしいのか、正面からは顔を会わせようとはしないリカが、はにかんだ笑顔を見せた。
その笑顔に、ついつい口元がにやけてしまう。
情けない顔ばかりを見せている自覚はあるだけに緩んだ顔を見せないようにそっぽを向いて頷いた。
「……そんなに俺を嬉しがらせてどうするの?」
テーブルの上に化粧ポーチを置いて髪を上げていたリカが驚いたように顔を上げてから、弾けるように笑い出した。
昨日、会ってから、ずっとこんな感じなのだ。
付き合うようになって、二人の部屋を行き来するようになって。
まだまだ慣れないから、会うたびにお互いくすぐったいような、恥かしいような気がしてしまう。
「……最近忙しくて会えませんね」
「ん。そろそろ、リカさん不足で電池切れそうです」
「何言ってるんですか」
そんな電話越しに甘えたことを言うのもどこかでくすぐったい。
くすくすと笑うリカに、本当だから、と付け加えると、少し間をあけてから小さな声でリカが呟く。
「私も……寂しいです」
「え……」
「変ですね。ずっと、どうしてるかさえ知らなかった時間もあったのに、今じゃ毎日こうして電話もメールもしてる方が寂しいなんて」
寂しい、と言うのは本当は少し違っていて、言葉を選んで口にする。
あの頃も、決して寂しくなかったわけではない。ただ、寂しいとか寂しくないとか、そんな言葉では埋められない何かがあったからで、少しも平気だったわけではないのだ。
―― ごめん
何度目かの呟きを口にしそうになって、大祐はぐっと飲み込んだ。その間を察したのか、リカが務めて明るい声を出す。
「駄目ですよ。大祐さん。また、ごめんって言おうとしたでしょ?それはもうなしにしましょうって約束したじゃない」
「かなわないなぁ。リカさんには……」
リカには電話の向こうで、くしゃっと顔をゆがめている大祐の顔が浮かんだ。きっとまた困った顔をしているに違いない。くすっと笑ったリカに、ひっどいなぁ、と電話の向こうから拗ねた声が聞こえた。
話し方も少しずつ、歩み寄る様にくだけて来ていて、お互い、仕事の口調は完全にはぬけないものの、気恥ずかしいくらい声を聞くたびにお互いが好きになっている。
「じゃあ、そんな意地悪を言うリカさんには教えない」
「えー。なんですか、そんな風に言われたら気になるじゃないですか!」
「教えて欲しい?」
「……~~っ。教えて」
少しだけ勝ち誇った雰囲気で、もったいぶった大祐が口を開いた。
「リカさんも俺も、忙しくてなかなか会えずにいたけど、リカさんは今週休みなんですよね?」
「え?ええ」
「俺も、休みになりました!しかも、金曜の夜にはそっちに行けます!」
「えっ!!本当?」
どうだ、と言わんばかりの大祐に答えた後、急にリカが黙り込む。
拍子抜けしてしまった大祐が不安になって、声をかけた。
「リカさん……?もしかして、仕事になってたり、する?」
「……ちがっ」
―― あっ……
慌てた声が思いのほか動揺していて、聞こえてきた大祐の方も慌ててしまう。
少しだけ湿った声はなかなか出ないリカの気持でもある。
黙ったままでいては駄目だと思ったのか、それでも少し間をあけてからリカが本当に小さな声で呟いた。
「……嬉しい、です」
―― うわ……
自分が天然で、普段、垂れ流しているくせに、その自覚は大祐には全くない。それどころか、その大祐の垂れ流しを見習おうと頑張ったリカが、ごくごくたまに見せる本音に今すぐ傍に行きたくなる。
そろそろ長電話で温かくなり始めた携帯をぎゅっと握りしめた。
「あー……、あーっ!ちょっと待って!待って。あの……。駄目。それ、金曜までとっておいて!今言われたら、俺、絶対我慢できなくなるから!駄目!お預け!」
「お預けって……。普通逆なんじゃ……」
力一杯、力説する大祐に、驚いてリカは携帯を耳から少し離して気の抜けた返事をしてしまう。
電話だから見えないが、一人部屋の中で両手をばたつかせた大祐は駄々っ子のように言い張った。
「いいから駄目だったら駄目!」
「う、はい……」
押し切られる形で頷いたが、嬉しいことにかわりはない。週末までにしておきたいことを頭の中に思い浮かべた。
金曜の夜、大祐が東京に来るのを迎えたリカを新幹線の改札前で、つい抱きしめそうになって派手に怒られる羽目になった。
「大祐さんっ」
「あ、ごめん。つい、ね」
「もう、周りの目を考えてください!ほら、行きますよ!」
ハグは駄目だと言ったリカがその直後に大祐の手を取って歩き出す。耳が赤くなっているのは、堂々と手を繋いでいるからなのか、久しぶりに会ったからなのか、いずれにしても可愛くて仕方がない。
―― これで抱きしめたくなるのを駄目って、結構キツイよなぁ……
リカに手を引かれておすすめの店に食事に向かう。ダウンライトに照らされて、薄暗い店内の個室に落ち着いたところで、改めてリカの手を握る。
カップル用なのだろう。狭い個室の中は向かい合う形ではなく直角に座る場所が作られていた。
「りーかさん。こっちみて?」
「な、なんでですかっ。ほら、あの、オーダー、決めないと……」
「うん。わかってる」
ぎゅっと握っていた手を解いて指を一本ずつ重ね合わせていく。恥ずかしいのか、会ってから視線を逸らしてしまうリカに片腕をテーブルについて横からまじまじと覗き込む。
メニューで顔を隠そうとしたリカの手を引いて、もう片方の手を首筋に回して強引に大祐は自分の方へと向かせる。
「……やっと顔を見てくれた」
「……別に、見てなかったわけじゃ……!」
正面から大祐を見たら、きっと動揺してる心の内側が隠せない気がしてずっと隣から何度もちらちら見ていた。それなのに、こうして見つめ合ってしまうと、心臓が飛び出しそうになる。
逃がさないように手を添えられているから、視線だけは彷徨わせていたリカは、笑顔のまま近づいてきた大祐に目を丸くして固まってしまった。
温かな感触に、北海道のあの日みたいだとぼんやりと頭の片隅で思う。
呆然としていたリカがゆっくり目を伏せると、わずかに唇を離した大祐が囁く。
―― もう少しだけ、頂戴?
何を、と口を開きかけたリカにもう一度、口づけた大祐は舌先を滑り込ませた。決して深くはないが、遊ぶように舌先を擦り合わせた後、名残惜しそうに離れる。
「……あー……、やっぱりこういう店って駄目だ」
情けないなぁ。
そう呟いた大祐の手から逃げたリカは、顔が真っ赤になるのを感じながら口元を押さえた。
彼女なんてずっといなかったというくせに、こんな風にリカを翻弄する大祐をちらりと盗み見ると、薄暗いなかでもはっきりと大祐の唇に移ってしまったピンクの色が見えた。
「……大祐さん、口、口紅が……」
「え?ああ……」
親指で口元を拭った大祐は、指先についた色に珍しいな、と思う。普段のリカは、化粧をしているのはもちろんだが、こんな風に口紅らしい色など使っていただろうか。
ナチュラルで化粧が薄いイメージがある。
「……口紅。局を出るときに塗りなおしたばっかりだったから」
「あ、そうなんだ?」
「だって……」
大祐さんに会うんだもの。
「……っ」
はにかんだその顔に、大祐は握っていた手を離して両手でリカの顔を包み込むと深く口づける。
―― 反則だってば……。もう、俺がどれだけ我慢してるかって話……
くらりと眩暈がしそうなくらい幸せだと思っていると、パタパタと足音が聞こえて個室の目の前で店員の声がした。
「失礼しまーす!いらっしゃいませー。お通しとおしぼりお持ちしましたー!」
近づいてくる足音でタイミングを計っていた大祐が、手を離してさりげなくメニューに迷っていたふりで口元を拭うと、生二つをとりあえず、と告げた。
「生お二つですね!ありがとうございます!」
そういって店員が去って行ったあと、涙目になりかけたリカが無言で大祐の腕を抗議するように軽く叩いた。
食事を終えて、リカのマンションに帰る間もいくら話しても話足りないくらいだった。
お互い、毎日話していたのに、そういえば、この前の話の続きがあって、ときりがない。
途切れることなく話しながら玄関の鍵を開けて、二人そろって中に入ったところで、大祐がリカを抱き寄せた。
「ただいま」
「お、おかえりなさい」
力いっぱい抱きしめられたリカの耳元で、深いため息と限界だという呟きが聞こえて、かり、と耳のふちに歯を立てられる。
びくっと驚いたリカを鞄ごと抱きしめたまま、唇で耳から首筋までをたどる。
キスしたら絶対に歯止めが効かなくなると思っていたから、ぎゅっとリカを抱きしめるだけでまずは飢えをしのごうと思っていたものの、耳元で聞こえるリカの吐息にあっさりと理性は崩れ落ちた。
―― やば、挫ける……
服越しに胸に触って、少しずつ息が上がっていくのを感じる。
「ふ……っ」
思わず漏れたリカの声を攫うように口づけた。
玄関先でごめん、とか、がっついてて、余裕ないな、とか。
頭の片隅をよぎったものの、それよりも目の前の誘惑の方が強い。2秒を覆したのよりも早く理性は崩れ落ちた。
そのまま、強引に貪って、一度目の波が過ぎ去ってからなだれ込むように部屋に入って、ソファのあたりで鞄や服を脱ぐのももどかしく、奪うだけ奪って。
一度は、バスルームに向かったのに、二人でベッドに横になっていると疲れている自覚はあっても眠れそうにない。
「……ん」
ぐったりと大祐の腕に頭を預けて眠っていたリカの顔を薄暗い中でまじまじと見つめていた。
―― 子供の頃って、どこでもドアとかサボるために欲しかったけど、今はリカに会うために欲しいよなぁ……
規則正しい寝息を聞きながら、腕の重さが夢のようで、確かめるようにそっと頬に触れる。
―― あったかい……
ぴくっと、動いたリカが、薄らと目をあけた。ごくちかいところで視線がぶつかる。
「……眠れないの?」
眠いからなのか、ゆっくりした言葉は普段の硬さもない。苦笑いを浮かべた大祐は、小さく頷いた。
「リカが傍にいるなぁって見てたかった」
それを聞いたリカが、頭を持ち上げて大祐の腕を首の下から抜く。逆に大祐の首に腕を回して、胸元に大祐の頭を抱えた。
「大丈夫。安心して眠って……?」
目を閉じると目の前の胸のあたりからリカの鼓動が聞こえる。柔らかな胸に顔を埋めるようにして、大祐はリカの体に手を回す。
「リカの胸、柔らかくて気持ちいい……」
キャミソールと部屋着だけの胸は、服越しでも手のひらには柔らかくて、頬を摺り寄せるとリカの胸が自然に上下する。
―― ああ……。駄目だ、俺、どんだけ飢えてるんだか……
散々、かき乱したのに、また熱を帯びた体はリカの細い体を愛したいと思ってしまう。
ささやかに、少しずつ、手を動かして、リカの反応を見ながら、怒られないことをいいことに不埒さは加速する。
「……ぁ」
「眠いよね……。ごめん、ね?俺、散々……。でも、全然足りないみたいだ」
―― ねぇ。ねぇ……リカ……
そして、その日会ってから一番、理性を無くしたリカに溺れた大祐は、ようやく、深い眠りに落ちた。
起きてからどこかに出かけようと切り出したのは大祐の方だ。せっかく、東京に来て部屋に籠りっぱなしはさすがにないだろうと、本音はずっと家にいてべったりしていたかったのだが仕方がない。
リカと一緒であれば幸せなのだから、それはそれでいいのだ。
シャワーを浴びてからほとんど着替えは終わっていたようなものだから、リカの支度をぼんやりと眺めている。何やらたくさん塗って、両手で頬を包み込むようにしているのをぼんやりと眺めていると、視線に気づいたリカが向きを変えて背を向けた。
「別にいいじゃない」
「気になりますっ」
ぱたぱたと手を動かしている後姿を見ながらぼんやりしていると、不意に悪戯っぽい笑みを浮かべてリカが振り返った。
「つけますけど?」
と、その手に口紅。
大股に近づいて、噛み付くようにキスしながら、出かけなくていい?と聞く以外に手持ちにカードはない。
華奢な顎に手を添えて、キスの間に囁いた。
―― 答えはきかないけど、いいよね?
もう少し二人でいることに慣れたら変われるのだろうか。
会いたさも、会えなかった時間の飢餓感も口紅の色の様に、馴染んで、深まって、いつの間にか自然になって。
―― でも……この馴染んでいない感じも捨てがたいけどね……
今は、口紅が移るようなキスを。
—end