感情的要素 2

「……」

いつものカウンター。
隣にはいつものように同僚の女。

いつもと違うのは、呆れすぎて、何度も口を開きかけては閉じて、を繰り返したことだ。

「お前、それ、誤解だろ?あくまで一般論で言ったってわかってるだろ?」
「そうかもしれないけど!そうじゃないかもしれないでしょ」
「……ばっかじゃねぇの」

ビールを飲んでグラスをあけた藤枝は、マスターにおかわりを頼んだ。何を落ち込んでいるのか、暗いのかとそれを聞き出すために、飲みに来て、ぽつぽつと不審者の一件をきいて。

それはそれでよかったし、稲葉らしいとも思う。だが、その話は完全に前座ではないか。
きいているだけで、明らかに言葉の行き違いというか、大祐がそれを自分の行動に当てはめて言ったとはとても思えないし、リカ自身もそうは思っていないことも明らかなのに、なぜこんなにも落ち込んでいるのか、藤枝には正直言ってよくわからない。

「あのなぁ。お前……」

もうちょっと考えろとか、言わなくてもわかるだろ、とか。
そんな感じのことを言うつもりだった。

頬を膨らませて、いいわけなのか、不満なのか、ぶつぶつと言い続けていたリカが急に黙り込んだから。

顔を向けた藤枝は、口元をへの字にしたリカの頬に、ぽつりと流れたものを見てしまう。

すぐ手のひらで拭い、今度は反対側も拭う。

「仕事は公私混同しないから。ちゃんとする」

以前より短くなったリカの頭に手を置いて、掻き回すことでその顔を隠してやるとされるがままになったリカは、ぽつりと呟く。

「稲葉」
「……なに?」
「お前が好きにすればいいけどさ。でも、お前は女だからさ」

そんなに傷つくな。

うまく言葉にはできないもどかしさはある。
ただでさえ、傷ばかり作る女のくせに、どうしてこう作らなくてもいい傷を作りたがるのか。

甘えさせてくれる相手がいるのなら、素直に甘えればいいのに、甘えられないのがリカらしいといえばらしい。

「あんまり飲むなよ。こういう時は、スイーツでも食べてゆっくり寝るもんだろ?」
「……スイーツなんて、夜食べたら太るじゃない」
「お前でもそんなの気にするんだ?」
「藤枝。あんた、私のこと馬鹿にしてるでしょ」

ほろ苦くても笑みが戻ってきたならいい。
いつもより早い時間に店を出て駅まで歩き出す。

「家まで送ってやろうか」
「……いらない」

いくらかましになったとはいえ、まだどこか拗ねたままのリカは、何度も頭のなかで繰り返される声を聞いていた。

『男は特別好きじゃない女性でもその場の勢いというか、衝動というか』

その直前、大祐が踏み出してきた時は、ドキドキしたのだ。
ほんの一瞬なのに、胸が苦しくなるくらいドキドキして、あの時を思い出す。恋心の先にあるものなんて、もうどれくらい離れているだろう。

きゅうっと心が締め付けられる想いがしたのに、特別好きだからじゃないと言われてしまえば悲しくもなる。

肩にかけたバッグを掴みなおした藤枝は、ふいにその肩を引いた。

「……え?」

気が付いた時には、藤枝がよくつけている香水の匂いがして、リカは、藤枝に抱きしめられていた。

「……なにしてんの?」

その腕に抱えられていると思ったら、ときめきより、驚きのほうが強くて、妙に間の抜けた声が出てしまう。
抱きしめられた腕に力が入ったと思ったら、すぐに離れた。

「どうだった?」
「なにがよ」
「いくらお前が俺の魅力に完全スルーでも少しはドキドキしたんじゃないのかってこと」
「それは……」

どう答えればいいのだろう。
言葉に詰まったリカの肩を掴んだ藤枝は、リカが身構えるよりも早く向きを変えさせた。

客観的に言えば、藤枝の男ぶりは確かにいいと思う。
いつも違う女の子を連れているような素行を知らなければ、もちろん、リカも惹かれていたかもしれないと思う。でも、それよりも友人としての藤枝が何より代えがたかった。

その藤枝にこんな風に抱きしめられるなんて考えてもいなかったし、今のこそ、大祐が言いかけた知り合いだとしても気をつけろということを言いたかったのだろうとは思う。

「……え?」

そこまではわかったのだが、いきなり向きを変えられて驚いたその先にもっと驚く。

「空井さん?……なんで?」
「あとは、ちゃんと本人と話し合え」

そういって背中を押し出されるよりも先に、大股で歩み寄ってきた空井が、すぐ目の前まで来る。

律儀にも、藤枝に向かって頭を下げた後、大祐はリカの腕を掴んで歩き出した。

「空井さん!」
「……家まで送ります」

まだ、わだかまりが無くなったわけでもなく、素直にはなれない気持ちのままで大祐に会うとは思っていなかったリカは、腕をとられて小走りになる。

「それはもういいって……」

まだもう少しの間、大祐から逃げたかったのに。
捕まれた腕から逃れようとしたリカを大祐が振り返った。

「よくないだろ!」
「……っ!」

びくっと震えたリカを眉間にしわを寄せた大祐がじっと見つめる。

「……自分、……僕は稲葉さんの彼氏だと思ってますから今のは怒るところだと思いますけど、それは僕の勝手な勘違いでしょうか。もしそうなら稲葉さんは、遠慮なくこの手を振り払って、ふざけるなって言ってください」

息が、止まるかと思った。
本気ですか。
それ、本当ですか。

でも、結局、口から出たのはそんな言葉ではなく。

「……空井さん。それをこの前言ってくれたら話は早かったと思うんですけど」
「稲葉さん?」
「空井さんはもう……っ!」

捕まれた腕とは反対側の手を握りしめてスーツの胸を拳で叩いた。それほど強くもなく、それが肩なら呼び止める程度の力で何度も叩く。

―― こんなに、悩ませて!不安にさせて!それなのに、そんな風に……

ほんの少しだけ強張っていた大祐の顔が緩んで、胸を叩かれる理由がわからなくて、眉がハの字に歪んだ。

「稲葉さん、ごめんなさい。そんな怒らせるつもりじゃなくて」
「怒ってるんじゃありません!そういうことじゃなくて!」
「じゃあ、……やっぱり僕の勘違いですか?」

情けないかもしれないが、少しだけ声が掠れた。

「……もうっ!」

思い切り大祐が掴んでいた手が振り払われた。元から、それほど力を入れていたわけでもなく、リカが振り払おうと思えば払えるくらいの緩い力を解いて、宙を掻いた手にするっと手が重なった。

「帰りますよっ!送ってくるんでしょう?!」
「あ、はいっ。はい、もちろん!」
「行きます!」

号令でもかけるように手を繋いだリカが今度は先に立って歩き出す。引きずられるように歩き出した大祐は、大股で追いついてリカの隣に並ぶ。

大祐が何か言うよりも先にぴしゃりと声が飛んできた。

「もう一度、何か言ったら今度こそ許さないです。絶対」
「はいっ。すみません!……じゃなくて、あの一応さっきの藤枝さんは……」

あっ、と二人そろって後ろを振り返るともうそこに藤枝の姿はなかった。

「そういえば、空井さん、どうしてここに?」
「あ。それは、室長から稲葉さんがここにいるから迎えに行けと連絡が来まして」

時間指定付きで届いた連絡に初めは迷った。行くべきか、行ったとしても、リカには会わずにそっと見守るのがいいのか。

だが、店から出てきたリカが藤枝と連れ立っていて、本当は帰ろうかとさえ思った。踵を返す前に、藤枝がリカを抱きしめたから、目が離せなくなってその場に立ち竦んでしまった。

「それってやっぱり……」
「……ですよね」

二人そろってため息をついて。
どちらからともなくつないだ手を握り合って、再び駅に向かって歩き出す。

ふわふわと、曖昧に漂っていた何かが落ちてきて、繋がれた手のひらの間に、今は確かに。

— end

投稿者 kogetsu

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です