真夜中のBlanc

夜の病院が怖い人は多いかもしれない。
というより、夜の建物は、というべきかもしれない。昔から怪談の類はお決まりのように学校や病院のようないかにもな場所にすぐそういう話を決め込む。

だが、医者をやっていて、夜の病院が怖いなんて言っていたら仕事は務まらない。

「後は頼むぞ」
「わかりました」

ICUの急変した患者の処置を終えて、指示を出したフェローたちに任せて廊下へと出ていく。騒がしくて明るいのはICUやHCUとナースステーションだけで、他はとっくに消灯している。
非常灯の灯りがあるから決して真っ暗にはならない廊下を歩く。

もうこれだけ長くこの中を歩いていれば、どこに何があって、この時間にはどこがどうなってるのか、知り尽くしているといっていいかもしれない。

下の階に降りれば人はどんどん減って、外来のあたりは本当に真っ暗になる。

「……」

大きな窓を背にした藍沢は、廊下の椅子に腰を下ろした。
大変さや時間にかかわらず、処置が終わればほっと息をつく時間がある。暗闇の中で、藍沢は何もない目の前を見ていた。

『ねぇ、藍沢先生。友達がね。お見舞いに来たの』

昼間、奏の元に顔を出した時、いつものようにそばかすの頬に張り付いたような笑みを浮かべてリハビリに励んでいた。

手術をする前は、もっと素の笑顔を見せていたのに、今はこんな風に目だけが笑っていない表情ばかりを見ている気がする。
タオルの上のオセロを震える手でひっくり返しながら、藍沢に向かって淡々とした口調が続く。

『本当に好きな人としか手を繋がないって。おかしいでしょ。先生は、誰かとそんな風に手を繋いだことある?』

思わず右手の人差し指と親指で爪をはじく。

「……いや」
『嘘でしょ』

間髪入れずに否定されて、藍沢は次の言葉を口にしなかった。言い訳じみた言葉に何の意味もない気がしたからだ。

奏は最後の一つをひっくり返した後、もう一度今度はたった今ひっくり返したところから白に返していく。その指先は細かく揺らいた。

『いいよね。そうやって、手を繋げる人は。私は、ピアノで世界と手を繋いでた。言葉じゃなくてもピアノが、私と繋いでくれてたの。……こんな手じゃなくて』

黙ってただ、その場で立ちすくんだまま、無意識に藍沢の手が動く。
院内用の携帯が鳴って、その場から離れられたのがよかったのかはわからなかった。

―― どこから変わったのか

降りてくる途中の自販機で買ったコーヒーのプルタブをあげる。
考えることが多いことも苦ではないのだが、さすがに自分自身が疲れている気がした。

こうして、一人でいると、余計にその疲れを自覚しもするし、逆に疲れが抜けていく気がする。
ふ、と暗闇の中で何かが動いた気がした。

顔を上げた廊下の先のほう。
突き当りの角を曲がれば階段とエレベータがあって、その奥は外来の受付がある。

無意識に、本当に無意識に弾いていた指先が止まった。

音がしなかったのに、いつもの結い上げている髪を下ろして、廊下の向こうにある大きな窓から外を見上げている姿が見えた。

何一つ変わらないつもりだったが、きっと、藤川なら今の藍沢の顔を見て、なんだなんだと食いついてきただろう。

そのくらい、いつもの困ったような不愛想な表情が崩れた。

「あ。藍沢先生。どうしたの?こんなところで。今夜の当直じゃないでしょう」

離れて見ていた藍沢の視線に気づいた白石が、ふっと顔だけを向ける。そんな距離で普通に話されても、おかしいだろうとおもうが、誰もいないからなのか、密かな声はまるで隣にいるように聞こえた。

「……藤川が」
「ん?」

少し間を開けてからゆっくりと歩いてくる白石を見ながら、手の中のブラックコーヒーが付きまとう様に周りに漂う。

「藤川が緊急オペに入ってる間に、ICUの平井さんが急変してフェローたちに呼ばれた」
「そっか。落ち着いた?」
「ああ。お前は帰るのか」
「うん。そしたらほら。月がすごくきれいだなって」

白い手が、コーヒーを持つ手にするっと触れて、それほど強い力でもないのに、導かれるように藍沢は立ち上がった。

「ほら。見て。もうすぐ満月なのかなぁ。すごいきれい」

夜中なのに、かなり近くて、まるで蛍光灯をまっすぐ見ているように明るい光を並んで見上げる。
手首の内側、まるで脈でも取っているかのように指先が離れない。

「そうだな。満月だろ」
「違うわよ。だってね、緋山先生が言ってたの。やっぱり満月と新月の時は産気づく妊婦さんが多いんですって。人間も自然の一部なんだねぇって、あの緋山先生が」

いつの間にか家族よりも親しくなった同僚のことを二度繰り返した白石の横顔を見れば、ただ、そのまま黙ってみていたくなる。

「藍沢先生も帰るの?」
「ああ」
「私、待ってようか」

藍沢は意外にも通勤は病院への無料送迎バスだ。それがない時間には、近いうえに運動不足だからと歩いて帰るのだが、それを言っているのだろう。
たまに、バスがない時間にこうして誰かが車に乗せてくれることもあるが。

―― どっちかっていうと、この時間は男が送る時間だろう

いくら近いとはいえ、零時を回っている時間である。

「いいのか?」
「うん」
「……わかった。少し待っててくれ」

つかず、離れず。
だが、その距離感はほかの同期とも違う。

そして、よりかかりすぎることもない心地よさがある。

まだ一口しか飲んでいないコーヒーを白石に渡した藍沢は、着替えるために更衣室へ向かった。たまたま残っていたからで、今夜の当直は藤川であり、オンコールは緋山だ。

着替えを済ませて、一階に降りると、関係者用の出入り口の外で白石が待っていた。

「待たせた」
「ううん」

何も外で待たなくても、と思ったが、車のカギを手にした白石とゆっくりと並んで歩く。外来や見舞用とは離れた駐車場に向かい、ロックを開けた白石と共に、車に乗り込む。

さっぱりとした女性らしい香りがして、白石らしい車中である。
きれいにしている車中で、カバンを後部座席に置いた白石が、キーを回した。

「悪いな」
「いいよ」

藍沢は車で十分の場所に住んでいて、急ぐときはタクシーだ。白石の家とは病院と同じくらいの距離ではあるが、白石にとっては大したことではない。

ゆっくりと走り出した車の中で、FMラジオが小さな音で鳴っていた。

「寒くなってきたのに、まだ帰るときは歩きなの?」
「ああ。寒いのもそんなに悪くない」
「私にはとても無理」

車での通勤に慣れてしまえば、それがたとえ短い距離でも確かにそうだろう。
窓の外で白石が見上げていた月を見ていた藍沢をちらりと見る。ふいに、ドリンクホルダーの隣に置いた携帯に手を伸ばしたくなった。

―― この瞬間を、残したい

そんな衝動に駆られてしまう。だが、藍沢の家までに通る信号は一つだけだ。

「どうかしたか」
「……ううん。なんでも」

ただ、こんな時間は、きっと年が明けたらもうなくなる。
一瞬頭をかすめた考えに、自分で驚いて踏んだブレーキが少し強かった。

「……っ。ごめ」
「どうした」

がくん、と赤で止まった車に思わず隣を見ると、いつもの落ち着いた何を考えているかわからないのとはちがう、本当に心配している顔に、焦りを覚えた。

「ごめん。ちょっと考え事しちゃって」
「……俺のほうこそ悪い。疲れてるよな」

流れるようにシートベルトを外す音に、ますます白石は慌てた。

「違うから!もうすぐだから、大丈夫だから!」
「ここまでくればすぐだ。それより」
「ちゃんと送るから!」

今すぐ降りようとする藍沢に片腕を伸ばして触れずに動きを止めさせる。目の前の信号が明るい緑色に光って、右手と右足が動いた。
走り出してしまえば、さすがに降りることはできない。目の前の腕に眉を上げた藍沢は、外したまま掴んでいたシートベルトを戻した。

「悪い」
「いいの。ただ……年が明けたら、こんな風に藍沢先生を送る機会もなくなるなぁって考えたの」
「……そうだな」

ほとんど毎日、冷蔵庫代わりのような、と藍沢が言っていたコンビニの前を通りすぎてマンションの前で車を止める。

かしゃっ。

「え?……え?」

当たり前のように涼しい顔で携帯を持っている藍沢に、目が点になる。
画面がみえるわけではないが、おそらく今撮ったものを保存しているのだろう。

「もうしばらくは、なかなかなくなるだろうからな」
「……『な』が多すぎない?」
「……そこか?」

呆然としているからなのか、藍沢がこんな風に携帯で撮るところも初めて見たからなのか、それが自分だから驚いているのか。
妙に間が抜けた言葉しか出てこなくて、自分自身でも突っ込みたいくらいの白石に藍沢は呆れた顔を向けた。

「言っただろう。お前は」
「面白い?」

苦笑いを浮かべる白石に、携帯から顔を上げた藍沢がまっすぐに見つめた。

「お前がいるから救命に戻った」
「うん。それは聞いた」
「……相変わらず面白いな」

たぶん。
そうかも。

お互いにわかっていて、踏み込まない。
踏み込まなくても何となくわかるから。

時々、食事をしたり、飲みに行ったり。
時々。視線の先にいることを確かめたり。

シートベルトを外した藍沢は、体を起こしてドアを開けた。

「助かった。ありがとう」
「あ、うん」
「また明日」
「うん。また」

あっさりと車を降りた藍沢が少しだけ離れたのを見て、白石はゆっくりとブレーキから足を離す。
動き始めた車にばん、と音が響いて、飛び上がった白石はブレーキを踏んだ。

「うわっ!」

離れたと思った藍沢が車のボディを叩いたのだった。

がくん、と止まった車のドアを開いた藍沢は車の中を覗き込む。

「白石。気をつけて帰れよ」
「……びっくりした。そういうことは降りる前に言ってよ!」

噛みつくように叫んだ白石の目の前でドアが閉まる。

「……」

車の外で藍沢が何か言ったような気がして、振り返った白石はバックミラーに映る後ろ姿に聞き間違いかと車を走り出させる。

その車を見送ることもなく、藍沢は携帯に保存した画像を見ていた。

ファイル名は『Blanc』。
その場を動きづらくて藍沢は空を見上げた。遠くに白石の車で見上げた月に照らされる。
冷えて冴え凍る白い月にしか誓えない想いをいつか、自分自身に誓えるようになればいい。

いつか。

―――― end

投稿者 kogetsu

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です