携帯が鳴っている。
反射的にいつもよりも早く手を伸ばして、ベッドから静かに滑り出た。
起こさないように、静かに足元に落としていたTシャツを拾い上げてバスルームに向かう。
「はい」
休みなのに申し訳ない、という電話の向こうはひどく早口だ。
「……わかりました。すぐに向かいます」
緊急の呼び出しである。昨日今日は休みにしていたがどうしてもこの時間、仕方がなかったのだろう。
顔だけ洗って、部屋に戻るとごそりとベッドが動いた。
「……呼び出し?」
「……悪い。起こしたか」
「だいじょぶ。……行って。気にしないで」
ごそごそと動いていたあと、起き上がろうとしたその脇に腰を下ろす。
「いい。寝てろ」
「でも……」
暖房は当然だがつけたままだから部屋の中は温かい。デニムを履いてダウンを羽織ればすぐに出られる。
「悪い。連絡する。鍵は最悪、ポストにでも入れておいてくれ」
「わかった」
手短な会話で住むのはありがたい。ありがたいが、正直なところ、物分りが良すぎるだろうと言いたくなる。
それも自分の勝手な我儘だとわかっているから口にはせずに、スペアキーを置いて、車の鍵と携帯、そしてバッグに財布を確かめて部屋を出た。
ダブルロックだがチェーンロックもしておけよといえばよかったか。
そんなことを考えながら、一階の駐車場に向かい、エンジンを掛ける。しばらくしてから走り出して思う。
鍵も同じだ。
最悪はポストに、なんて余計な一言だったんじゃないか。
さっきまでの温もりが嘘のように、冷えて暗い夜道だが病院までは車でたかが10分程度だ。自分で借りたわけではなく、まるっと病院が借り上げているマンションで、車も病院がリースしているらしい。
初めはいらないと思ったが、足がないと色々不便だと言われてそのまま借りてしまった。
確かに、楽ではある。
病院のスタッフ用の駐車場に乗り入れて、裏からそのまま入っていく。
「藍沢先生!」
ひらひらと奥から手を振っているのは、かなり年上の女性医師だ。
「ごめんねぇ。こんな時間に」
「構わないので。状況は」
「交通事故だわ」
雪道での車同士の事故で、ぶつかった方の運転手がフロントガラスに頭を打ち付けているらしい。
フロントガラスにヒビが入るほど強く打っているということでの呼び出しだ。
「他の先生方捕まえたかったんだけどねぇ」
ダウンを脱いで、その場で渡されるものに黙って腕を通す。
救命はだいたいどこも似たようなもので、万年人で不足の休み無しだ。
それでも、藍沢が来て半年。ようやく交代で休みも確保できるようになった。
ここから時間の感覚は日常とは切り離されたものになる。
朝方、一通り終わって、廊下に出ると置きっぱなしにしていたダウンを別の医者が片手に抱えてきた。
「藍沢先生、早く帰ってくださいね。いればいるほど捕まっちゃいますよ」
「あ、はい」
「彼女さん、来てるんでしょ?」
北海道弁ではないらしいが独特のイントネーションの彼は、どことなく橘に雰囲気が似ている。飄々としているが腕はいい。
ここに来て何年になるかは知らないが、どこがおすすめかと話を聞いたら、あちこち熱弁を奮ってくれた。
「今日、夕方の便で帰るならさぁ。少しでも一緒にいてあげてくださいよ」
「まあ、あっちもわかってるんで」
「それはそれ。じゃないと僕みたいになっちゃいますよー」
あはは、と軽く笑いながらクロックスの音をさせて去っていったが、本当は軽くはないことを知っている。
というのも、婚約までしたのに最近になって破局したことを聞いたからだ。明るくしょうがない、と言いながらまだ吹っ切れていないのは見ていてもわかる。
着替えを済ませて、再び車に乗ると、走り出す前に携帯を開いた。流石にまだ寝ているだろうと思ったとおり、未読もないアプリを閉じて家に向かう。
焦る、というわけでもなく、ただ、気持ちがそちらを向いているのを感じて、無意識に指先を擦り合わせてしまう。
―― 俺も浮かれてるのか……
ただ寝て、食事をするために帰るだけだった部屋を掃除したり、こうして向かっている間も、そこに人がいる、ということも。
わかっている。
頭では、いろんなことをわかっているのだが、感情はどうしようもない。
鍵を開けて、玄関を開いた瞬間の空気に息が詰まりそうになる。
いつもならいつ帰るかわからないから冷え切った部屋のはずが、明かりがついていて温かい。
「おかえり?」
テレビがついていて、すでに着替えも済ませていた白石がひょこっと顔を覗かせた。
無意識に。
本当に無意識に腕を伸ばして抱きしめてしまう。
「……お疲れ様」
いくら短距離とはいえ、車を降りて外から戻ったばかりの自分は冷えているだろうに、ぽんぽん、と背中を叩いてされるがままになっている。
自分と同じシャンプーの匂いがして、なかなか腕を解けなかった。
「……悪い」
「ふふ……。なにがよ?」
「色々……」
本当に色々だと思う。
ぎこちなく藍沢が腕を解くと、白い指先が伸びてきて髪に触れた。
「お疲れ様。ね、冷蔵庫みてびっくりしちゃった。ちゃんと食べてないでしょう?」
人のことはあまり言えたものじゃないくせに、白石に軽く睨まれて、目が泳ぐ。
するっと下がった手が腕に軽く触れてから、本当にあるだけになっているキッチンに向かう。
「コーヒーと水しかはいってないんだもの。何を食べてるんだろうなぁって思っちゃった」
小さな流しの隣には、どうやら買ってきたらしいドリップコーヒーのパックが置いてある。
かろうじて置いてあった、小さな鍋でお湯を沸かしたらしい。
かちん、と音がして、再び火をつける音がする。
ジャケットを脱いで側に行くと、流しに手を置いた白石が“ん?”と首を傾げた。
「どうしようか。何か買ってきてもいいけど、ほんとになにもないのよね」
「たいてい、買ってくるか外で済ませるからな」
「ですよねぇ……」
困った人だと言いたげな白石にもう一度腕を伸ばす。
今度は自覚して抱きしめればTシャツ越しにその体温を感じる。
「……悪い」
「だから何に謝ってるの?」
「言ってもいいか?」
「何?」
抱きしめた背中ごしに、つけていた火を消す。
「本当は、外に連れて行って、なにか食べさせてと思ってはいる」
「うん?」
「でも、何もしないからもう少しだけこうしてていいか」
ぴくっと動いたのを感じて、腕を離そうとした瞬間、逆に抱きしめられた。
「悪くないね」
「……え」
「わがまま、聞くのもわるくないなって」
抱きしめられることが。
こんな風に思えるなんて。
「……そうか」
「そうよ」
「そうだな。……悪くない」
口元が、自然に緩んだのも悪くない。
もう一度、抱きしめなおして、そのままその腕で抱え上げた。
「えっ。ちょっ……」
「何時だ」
「え?」
「帰りの便」
「それは……」
それはまだしばらく後。