藍沢の仕事は、札幌に来てから余計に、極端な日が増えた。立て続けに手術やコンサルで呼び出される日もあれば、丸一日何もなく夕方になって、そのまま家に帰る。
この日も、そんな一日で、藍沢の後任になる医師は午前中だけ挨拶に来て、まだ元の仕事があるからと帰っていった。
携帯の時間をみて、更衣室で着替えたあと、家に戻った藍沢はパソコンを開いている。
この日の夕飯は、途中で買ってきた弁当だ。
全く一日何も口にしない日もあるくらいだから、食べられるときは一応気を配って野菜を多めにしたりもする。だが、何も考えたくない日はありふれた弁当を手に取ることも多い。
かちかちと、サイトを巡るのは、翔北に戻るための部屋を探しているからだ。
病院に近くて、車はあってもなくてもどちらでもいい。近ければなくても困らないからだ。
荷物もそれほど多くない。それこそ、トロントに行く前に荷物を減らしてから、多少着替えは増えることがあっても、基本的な生活が変わらないから大して物が増えることはない。
増えるとすれば雑誌や医学書のたぐいだが、それも用が済めば病院に置いてしまう。
あとは、合間に映画をみたりすくるらいだったが、それも今はネットにいくらでもある。荷物を増やさなくても十分に生活できてしまう。
そうなると、あとは最低限の家具があれば良くて、大した広さもなくても困らない。
困らないはずだった。
だが、今、ついつい見てしまうのはもう少し広い部屋の間取りだ。
例えば、2Kでもいい。
そんな考えが頭の隅にあって、ワンルームを探す手が何度も止まり行き来してしまう。
―― 柄にもない
悩む、と言うにはひどく自分本意な気がして、その考えをまだ口には出せていない。
いうべきか。
長い時間をかけて熟成してきた心は、当然だが彼らとの関係も同じだ。
時に辛辣な言葉をぶつけたりすることもある。
それでも、信頼は揺るがない。
そして、伸ばした手をもう引き戻すことも難しい。
ただ、そんなことを言い出して、どういう反応が返ってくるだろうか。
どちらかといえば、自分にメリットがあっても、彼女にはないかもしれない。
自分にもあるが、疲れ切って、それでも一人で考えたいこともある。
そう思っている間に、携帯が光った。
『お疲れ様』
メッセージを開くと、既読がつくからなんとなくメッセージを見られる状況なことは伝わるだろう。
『お疲れ。もう終わったのか?』
『ううん。まだ。でも今日は早いかな。そっちはどう?』
俺は。
そう打ちかけて、途中まで入れた文字を消して電話マークを押した。
『……びっくりした』
「俺はもう家」
『あ、そういうこと……』
『なにかあったのか?』
早い時間に連絡があることもないわけではない。何かなければ連絡しないのかと言われたらそんなこともない。
ただ、なんとなく。
何もなく過ごしていればいい。
そんな思いからついつい、こんなふうに聞いてしまう。
だが、今日はなんだか雰囲気が違った。
『いや、……ないというか、あるというか……』
「何だ?」
『その、この前そっちに行った時に、もうそろそろ戻るかもしれないって言ってたでしょ?どうなったのかなって……。色々、その……』
なるほど。
お互いに気になることは近いということだ。
『ほら、脳外に戻るにしても、救命に戻るにしても、さ……』
「そうだな。それはまだ決まってないが……」
『だよね!うん、どうなったかなーなんてちょっと聞いてみようかなって思っただけだからいいんだけど』
「まて」
早口で話しを終わらせようとする相手を止める。
低い一言で会話が止まった。
「どうするかはまだ決まってないし、お前にも相談はする。勝手に決めたりしない」
『……ありがとう。でも、その、藍沢先生がやりたいことが一番だから』
「それもわかってる」
そう思うと、トロントの時も初めて話したのは彼女だったかもしれない。
「今日、帰ったら話せるか?」
『え?あ、うん。ごめんね。こっち、まだ病院なのに連絡しちゃって』
「いや、わかってて俺もかけた」
『あの、もちろん大丈夫。帰ったら連絡するね』
「ああ」
じゃあ、といって電話を切る。
切った携帯をしばらく眺めていた藍沢は、そのままテーブルに携帯を置いた。
仕事を終えて、車を走らせて。
家に戻るまで、頭を切り替えていたのはようやく終わりだ。
頭を一つのことに占められないように慣れていたのが幸いする。
でないと、気になって仕方がなくなっていたかもしれない。
鍵をあけて、部屋に入って、鞄を置く前に携帯をタップした。
『お疲れ様。帰りました』
すぐに既読がついて、ソファにそのまま腰を下ろした白石の携帯が鳴った。
「もしもし」
『悪いな。疲れてるだろう』
「ううん。大丈夫」
話ながら肩から鞄を下ろす。その摩擦音が聞こえたのか、ふっと藍沢が黙り込んだ。
「もしもし?ごめんなさい。雑音……」
『……落ち着いてからでよかったのに』
「え?」
電話の向こうで、微かに笑った気がした。
『いや。何でもない。今日は?』
「うん。割と平和。研修の先生がすごく優秀でね。フェロー卒業してても彼らよりずっと優秀」
『そうか。お前も少しは楽ができそうだな』
それで。
わざわざ話せるかといわれたのは初めてで。
「それで?」
『気にしてたのか?』
からかう声に少しだけむっとして、なによ、と呟く。
『悪い』
「そういうところ、ほんと変わんない!」
『謝ってるだろ』
謝るようになったことは昔とは違う。関係が違うだけじゃない。
元々、優しい人だということはわかっていた。
「もういい……」
『怒るな。……話があったのは本当だ』
「ん……」
携帯を握りなおして、小さく息を吐くと、それが伝わったらしい。
相変わらずだとでも思われただろうか。
そう思っていると、少しだけ柔らかくなった声が聞こえた。
『なぁ。そっちに戻るのに仕事もだけど、俺はトロントから戻ってすぐにこっちに来たから部屋がないんだ』
「あ……。そっか、そうだったね」
『ああ。こっちの部屋は病院で丸っと借り上げたところだから』
そういえばと思い出したのは、それだけ藍沢の荷物が少なかったからだ。
戻ってきて荷物を受け取って、それも一旦はトランクルームに預けて部屋を探していたところだったのを思い出す。
「そっか。どのへんかな。前に住んでたあたりは?」
『そうだな。いいところがないか探し始めたところだが……』
「私もこっちで探すわ」
『……』
病院から近い場所。
近くて、便利がよくて、できればコンビニでも傍にあればなおいい。
そう思って、頭の中で場所を思い浮かべて。
『なぁ』
「ん?」
『お前の家、病院から車で五分だったよな』
どこかで同じ会話をした記憶が掠めた。
『しばらくお前の家に泊めろよ』
「……しばらくってどのくらい?」
『さあ。それはこれから次第じゃないか』
さあ。
イエスと言おうか、無理だと言おうか?
「……あの」
一歩踏み出したサインの色は。
— end —