すべては誰かの掌の上で 4

藍沢にしては困った、という素直な言葉に緋山と藤川の異様なテンションも普通レベルまで下りてくる。

「そうだな。仕事柄なのかなぁ。それだったら俺たちもすんごい数の人に会ってるけど」
「俺たちの場合は、大体非常事態だろ。普通じゃない状況でしか顔を合わせないんだから同じとはいかないけど」

洞察力、という言葉があって、真田にはそれが特別高いように思えた。

「ただ……、ただちょっとなんか嬉しかっただけよ」

気まずさからか、そんな呟きを残して先に立ち上がった緋山を見送って、食べかけのサンドイッチに再び手を伸ばす。
この中では白石だけがその役とやらを聞いていないことになる。

「藍沢先生はなんて言われたの?」
「……忘れた」
「だってさっき」

言ったじゃないの。

その先を言う前に、お先、という藍沢にも置いて行かれた白石は頬を膨らませた。

こうなれば、何が何でも真田と話してみるしかない。
白石の決意は、その後、遅い時間になっても叶えられなかった。

夕方、藍沢の言う通り、病室に移動になった真田は二人部屋に一人という状態を逆に楽しんでいた。

遅くまでベッドサイドの明かりがついたままの病室をノックする。

「真田さん?まだ起きてるんですか?」

音のしない病室の引き戸をスライドさせて、部屋の中を覗き込む。
頭のあたりにだけは一応気をつかったのかカーテンが引いてあったので、伸びてきた手の影が見えた。

「その声は白石先生だ!すいません。あっちの部屋と違って、こっち、静かなんで」
「駄目ですよ。ちゃんと寝ないと治るものも治りませんから」

定型文のような注意を口にしながら白石はベッドの傍へ近づいた。

横になっていた真田の枕元には薬や入院の注意書きが折りたたまれていて、その裏に何やら書きなぐっていたようだ。
まだ見舞客も身内も来ていない真田に荷物があるとすれば運ばれてきたときの靴や、切られずに残った服くらいで、まだタオルさえ病院の物だ。

「それは?」
「ペン借りたんです。紙というか、こう、ノートみたいなのがあればよかったんですが、僕、荷物も劇団に置いたままで運ばれてきちゃったんで、一文無しだし。明日、仲間が荷物や着替えを持ってきてくれるまで何でもいいからメモ残しておきたくて」
「みてもいいですか?」

見ただけでも柔らかそうだという手を伸ばしかけて、笑顔できっぱりと断りがはいった。

「駄目です。これは一種のネタ帳みたいなものなんで。僕の秘密です」
「そうですか。残念」
「あれ?残念って思ってくれるんですか?光栄だなぁ。今日はここのいろんな先生や看護師さんと話して、いい取材させてもらいました」

天井の明かりとは違って、淡いオレンジ色のライトが照らす枕元から丁寧に一枚一枚、折りたたんだ紙をベッドわきの引き出しにしまう。
器用にも起き上がらずにここまでやろうとした真田を少しだけ白石が手を貸す。

「劇団の方で、おもしろいって今日はここ、その話でいっぱいでしたよ?」
「ああ。そうでしたか。楽しんでもらえたならよかったなぁ」
「どんな話をされたんですか?」

長くなりそうな気配に、おや、と顔を向けてくる。そばにあった丸椅子を引き寄せた白石は少しだけですよ、と腰を下ろす。

「僕が芝居を作ってることはお話しましたよね。僕、役者のほうじゃなくて話を作るほうなんです。だから、なかなかない環境だとつい、取材しちゃって」
「話をつくるほう?んー、脚本とか、ですか?」
「ま、そんなもんです。ちゃんと脚本に起こすのは別な奴が大体やるんですけど。でね、この世の中全部が劇場だって僕思ってるんですよ」

白石が腰を下ろしたことで、すこしだけお許しをもらったと思ったのか、真田はゆっくりとしゃべり出した。

「これ、初めは僕が楽しむために頭の中だけで考えてたんですけどね。例えば、今白石先生は、医者っていう役なんですが、場面はこうです。いうことを聞かなくて夜更かしをする患者Aを叱りに様子を見に来たシーン」
「??」

いきなり話が始まって目を白黒させる白石にまあ、最後まで聞いてください、と真田が続ける。

芝居って言ってもドラマくらい見たことあるでしょう?白石先生も。
そんなもんですよ。場面は病室。心配半分、叱らなきゃって気持ちで来た。
でも眠れないときは仕方がないことも知ってる先生は、少しだけって言って話し相手になってくれる。
……っていうかんじですよ。

僕ら、みんな生まれてきて死ぬまで、人間として舞台に立ち続けてるんですよ。皆、無意識ですけどね。
プロの役者ですから。時々は自分自身も騙しちゃったりして。
どうです?おもしろいでしょう?

そんなものだろうか。

白石には面白いとは思っても、どうにも頭の中で想像ができないでいる。それを、真田は、軽やかに笑った。そこそこの年齢だとわかっているのに、その笑顔はまるで少年のようだ。

「これね、結構いろんな人にいいんですよ。ストレス解消にもなるみたいで」
「ストレス解消……ですか」

疑わしそうな顔の白石にそうだなぁ、と少しの間考えを巡らせる。

「うーん、そうだな。病院じゃどうなんだろう。普通の会社だったら、例えば白石先生の上司は」
「橘先生?」

続きを促す目に自然と白石が答える。普通の世の中ではまだ宵の口だが、病院ではかなりの夜更けになんの話をしているのやらと思う。

「よし、じゃあ橘課長に急に無理な仕事を頼まれた。でも白石先生はどうしても急いで帰らなくちゃいけなかった。こんちくしょー!課長のばかやろーって思うとするじゃないですか」

そんなこと言いませんよ、とついつい苦笑いを浮かべてしまうが、真田はいたって真剣である。

「つまりこの時は橘課長は無理難題を部下に頼む、という役を演じているんですよ。そう思ったら腹もたたないでしょう?それで、白石先生は断ったっていいんです。どうしても頼まれた仕事を断る部下っていう役かもしれないし、仕方なく引き受ける人のいい部下って役どころかもしれない。そう考えたら、時々は自分らしくないことをしてみたり、やっぱり、自分っていう役に似合ったことをしたくなったりしません?」
「そん……なものですか……」

自分たちの状況に置き換えることはなかなか簡単ではなく、白石には曖昧に頷くしかできなくて。
それでも、真田がひどく真摯に語ってくれていることだけは伝わってきた。

「あんまり、うまい例えじゃないですね」
「いえ、そんな……。ただ、私たちの場合、上司からの無理難題っていっても、あるようなないような……」

頭の中に浮かぶのは、現場に行って、シニアの助けを受けなければ対処ができないような状況において、指示する余地もないと言われる時、一人で指示を出せと言われた時など、どれも断ることなどできない上に、指先まで震えてしまうような絶望と恐怖である。
それを、そんな役どころなのだと言われてもなんだかピンとこない。

「……そうか。先生たちはそうですよね。迷ったり……、それこそ今日は合コンだから帰りまーすって言われちゃったら俺たち患者は困っちゃうか」

横向きだった真田がふっと力を抜いて、天井を仰ぐ。

俺もまだまだ駄目だなぁ。

独り言なのか、そんな小さな呟きが聞こえてきて、今までの記憶に浸りかけた白石は丸くなりかけたその背を伸ばした。

「私はよく、そういうお芝居とかわかりませんけど、そんなことはないと思いますよ。ただ、真田さんはこういう病院とか、私たちの仕事を知らないので、なかなかうまくいかないだけだと思います。……もちろん、こうして救命に運ばれてくるようなことは皆さんないほうがいいんですけど」
「それはそうですよね。だとしたら、僕、今、すごい貴重な経験だ!」
「駄目です。そんなことを貴重な経験だなんて言わないでください」

調子に乗りかけた真田に、今度こそ真剣に叱りつける。
殊勝にもすみません、と詫びを口にする。その肩に白石は立ち上がって布団を軽く乗せた。

「もう眠ってください。今度こそですからね」
「わかりました。遅い時間までつき合ってくれてありがとう。白石先生」

頷いた白石が枕元のライトを消して、廊下の明かりを頼りに部屋から静かに出た。その先に、腕を組んだ藍沢が壁に寄りかかっている。

「……わっ。なんで?」
「お前がいつまでも戻ってこないから」
「大丈夫。ちょっと話してただけ」

いつからいたのか。
藍沢は、小さく頷いただけで背中に力を入れて体を起こすと、背を向けて歩いていく。その背中を見た白石は、小走りに歩いて藍沢の隣に並んだ。

ただ、並んで歩く。

ナースステーションまでのほんの数メートルの間を。

煌々と蛍光灯の白さが眩しい場所まで戻ってくると、白石は溜まっていたカルテの山に向かった。

投稿者 kogetsu

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