救命センターの中に走りこむと森本が電話をとっている。
「はい、はい。なるほど」
手元のボードにはすでに患者情報が書き始められていた。
頷いた緋山を見ながら電話を切った森本は、ホワイトボードを立てて振り返る。
「17歳、高校生男子。部活中に転んで左足の骨が飛び出してるらしい。解放骨折だな」
指示を飛ばしながらフライト用のジャケットに袖を通して、緋山と一緒に走り出す。冴島はいつものようにその後ろにバッグを担いで続いた。
「部活中って外ですかね」
「グラウンドなんかだとなー。砂が厄介なんだよな」
ヘッドセットをつけてベルトを締めると、いくらもせずにふわりとした体感のままヘリが浮き上がる。
空は、よく晴れて視界もいい。
「風が少し強い。揺れるかもしれないから気をつけてくれ」
ヘッドフォン越しに梶の声が聞こえる。
時折、体を強引に揺さぶれる衝撃に耐えながらヘリが現場に向かっている頃、今度は藤川が真田の病室にいた。
同世代で話し上手となればやはり気心も合う気がして、誰もが饒舌になるようだ。藤川もその一人であり、調子に乗ったときは盛大に見栄を張る藤川だが、真田の引き出し方がうまいのか。
どうやら素直な胸の内をさらしているようだ。
「さっき来てた彼女?すっごい可愛くていい子だよなあ。あれ?職場恋愛みたいな?」
「ま、そんなところ。ほら、僕、見た目普通だけど優秀だから?」
「よくいうわ!」
はは、と男同士の気楽な会話。
確かに藤川から見ても、真田は藍沢のような誰が見てもイケメンだというような感じではない。どこにでもいそうな、ごく普通の青年だが、いつも顔中をくしゃくしゃにするような笑顔で目が開いているのかも分からない、とからかいたくなるような男だ。
人の好さが伝わってくるような真田の元には気づけばドクターたちまで集まってしまいそうになる。
「でも、本当に優秀なんだろうなぁ。……俺さ、ずっとヘリにも乗れなかった時期があってさ。人よりなんもかんも遅いし。特にあいつ、藍沢には全然敵わないし」
これだけ人に好かれる、ということだけでなく、白石や藍沢よりは世間に目が向いている藤川も名前や有名なタイトルくらいは耳にしたことがあるのだから、よほど優秀なのだろうと思う。
ついつい、その優秀さを持たない自分と比較してしまうのは、身近に優秀すぎる男がいるからだ。
今はまんまるの眼鏡をかけて膝の上にノートパソコンを置いている真田は、小さな音をさせてキーを叩いている真田は、誰だってそうですよ、と返した。
ながら作業で話をするのかと言われそうだが、藤川のほうもベッド用のテーブルの上に溜まった書類書きを積み上げている。
「だってさ、あいつこういう書類仕事だって早いんだぜ。まいるよなー。要領のいい男ってのは」
「……」
「な?そう思うだろ?……どした?」
話しかけた相手から、ついさっきまでは相槌だけでなくかえってきていた返事がない。顔を上げた藤川は真田がじっと手を止めて動かないことに気づいた。
体を起こして様子を見ようとした藤川に、はっと顔を向けた真田の顔が崩れた。
「やだなぁ。藤川先生が、アイデア浮かぶようなこと言うから、めっちゃ今いいところだったー」
「なんだよ、驚かすなよ」
「いや、今頭の中で、藤川先生、絶賛上演中だったわ」
「どうせなら俺、男前で頼むよー」
弾けるように笑う。
大丈夫大丈夫、と手を振る真田にほっと、藤川が力を抜いて再び書類仕事に戻る。止まっていたキーを叩く音が始まり、次の面会時間まで真田は藤川の愚痴ともぼやきともつかない話を面白がって聞いていた。
* * *
真田が受けたカテーテルによる処置は、昨今ではこの手の状況では一般的に行われている処置の一つだ。
心臓を取り巻く血管のどこかにつまりが出る。その狭窄部分にカテーテルを入れ、バルーンで膨らませる場合、ステントを入れて広げた血管を維持する場合などがある。
前回はバルーンだけで済んだようだが、今回はステントという網目状の金属を入れて血管が狭くなるのを防ぐ処置を行った。
これはしばらくの間、狭窄していた個所から血栓がはがれてほかの個所が詰まったり、ステントを異物として血液が固まるのを避けるための薬を飲む。
合併症や異常が起きないかを観察後、さらに一般病棟で様子を見た後に通院治療に切り替わる。
このままいけば、明日には一般病棟に移動しよう。そう聞いていたある夜。
妙な息苦しさを覚えていた。
夢を見ているのに苦しい。苦しいから夢を見ているのか。
我知らず、その苦しさにうめいていたらしく、同室になった解放骨折の高校生がそのうめき声にナースコールを押した。
ベッドボードのあたりからどうしました?の声掛けに高校生は真田が苦しそうだ、と伝えると、当直をしていた藍沢が駆けつけてくる。
「真田さん?わかりますか?」
肩を叩かれて、名前を呼ばれているのだとわかったときには、夢で見ていた水の中からふわぁっと一気に水面に出た気がした。
はぁ、はぁ、と溺れかけた人のように息を吐くと病室の明かりがついていて、その眩しさに驚くのと同時に安心感が広がる。
「あ……れ?藍沢先生」
「真田さん。今、苦しくないですか」
「俺、今……」
「黙って」
浅く短い呼吸を繰り返している真田を診て、藍沢はすぐ後ろにいる冴島に指示をだす。薬の名前なのか、なんなのかわからないまま、真田がぼんやりしていると、しばらくして冴島が戻ってきた。
金属のトレーを受け取った藍沢に、されるがまま、呼吸が落ち着いてくると胸を開けて聴診器を当てられる。
間近で藍沢を見て、ようやく意識がはっきりしてきた。
「ああ……。なんだかすごく気持ち悪い夢を見てて……。水の中っていうか、どろっとした液体の中に落ちたみたいな……」
眉をひそめた藍沢は何も言わずカルテに書き込む。
「落ち着いたみたいなのでこのまま様子、見ましょう。また苦しくなったら今度はちゃんと呼んでください」
「はは……。すいません……」
「いや、我慢しないでください」
ベッドの頭のほうを少しだけ起こしてもいいかと聞いてから、これはしばらく眠れないな、と思う。
悪い夢の残滓なのか、不快感だけが溢れていて、真田は力なく笑った。
ナースステーションに戻ってすぐ、藍沢は真田のカルテを広げる。
もちろん、紙ではなく電子カルテのほうだ。こちらにはカテーテルを行った際の造影剤を入れた血管の様子も残っていた。
繰り返し一本一本、末端まで何度見返してもほかに狭窄していそうな場所が思い当たらない。
見落としではないにしてもさっきの様子ではもう一度検査が必要だ。
「藍沢先生」
「冴島。明日、胸部CT押さえて」
「わかりました」
一度、すでにカテーテルをしている。再検査をするにしても負担が少ないほうがいい。
そう判断したのだろう。
冴島は胸部CTの空きを確認して、午前に予約を入れる。
藍沢にオペが入っていないことは先に確認済みだ。
「10時でとれました」
「わかった」
電子カルテの画面を一つ戻せばすでに冴島の入力が終わっていて、明日の検査が反映されている。
同じ当直予定の橘を探しに、ナースステーションをでてすぐそばの医局に向かう。フェローたちが書類仕事に追われるように、橘はもっと種類の違う書類仕事がある。
それらをナースステーションでするわけにもいかず、主に当直の時は医局にいることが多い。
「失礼します」
ノックもしないが、声をかけてドアを開けるとモニターに向かう橘の姿が見えた。