ほかの医局はもっと人も多く、広いのかもしれないが、救命の医局は主にシニアが座っていることが多いだけで、ほぼ人がいない。
だからなのか、かろうじて人数分の机があるくらいの広さである。
「お、どうした。藍沢」
「真田さんなんですが、睡眠中に苦しそうにしていたらしく、今は投薬で落ち着いたので様子を見ますが、もしかしたらほかにも狭窄している場所があるのかもしれません」
「真田さんか……」
医局のパソコンからもカルテにはアクセスできる。
すぐに開いていた画面とは別に真田のカルテを開いた橘は、検査の予約を見て頷いた。
「いいだろう。検査の結果が出たらまた対処を考えよう」
「わかりました」
「いい判断だ」
藤川なら褒められた、と笑顔になるところだろうが、藍沢の表情は変わらず、淡々としている。それもまた面白いと橘は思う。キャラクターの違いはその仕事ぶりにも表れるからだ。
「今夜は藍沢だけか」
「いや、白石がいます」
「そうか。わかった。何かあったら呼んでくれ」
わかりました、ということもなく、黙って頭を下げた藍沢が医局を出ていく。
再び、橘が開いた画面には、つい今しがた出ていったばかりの藍沢を含めたフェローたちの評価シートがあった。
「白石」
「なに?」
「真田さん、さっき具合が悪くなった。今夜はもう大丈夫だと思うが明日検査だ」
「わかった」
いつもならそこで終わる会話だったが、その後にまだ何か言いたげな藍沢がじっと白石を見ている。
ん?と首をかしげると、いや、と躊躇った後、考え事をしているときのいつもの癖なのか指先を見て、もう一度何でもない、と呟いて背を向けた。
背中で、肩を竦めた白石が仕事に戻る気配を感じる。
漠然とした不安がよぎる時。
藍沢にとって、自分がこれまで身に着けてきた知識、技術、経験だけでは対処ができない時。
黒田や橘、西条のような先達のアドバイスをうけて、それでも何かに迷う時。
ふいに、お前ならどうする、と話しかけそうになる。
言ってしまえば、傲慢かもしれないが、冷静に仲間の腕を評価し、判断すると話しかける相手が限られるというだけのことだ。
緋山と藤川のいいところも、そうでないところも理解してはいるが、無意識でも信頼を置いているのは白石だ。人の気持ちに疎い以上に、自分の感情や思考に疎い藍沢にもそのくらいの自覚はある。
特に、こんな夜は。
再びパソコンに向かった藍沢と、看護師たちと時折話をしている白石と。
何もなければいい。夜が来るたびにそう願うなかで時計の針は朝を目指して進んでいく。
* * *
真田の担当医の欄には白石と藍沢の名前がある。初めに運ばれてきたときは緋山も一緒に見ていたが、症状から途中で藍沢に代わっていた。
胸部CTの検査に立ち会った二人は、モニターに映し出される映像に同時に反応した。
「分岐……」
「そこか……」
左冠動脈から分岐した先の、比較的太い血管のさらに分岐する当たりが明らかにおかしな様子を見せていた。うねり、蛇行する血管が一度膨らませた風船のような、ぼこぼこした状態に見える。
「どうしよう……」
白石の呟きはわからなくもないものだった。
Y字に分岐する血管の分岐点に近ければ近いほど、ステントをかけるのは難しい。ストローのようなものをY字にするとどうなるか考えればわかるかもしれない。
どちらかを支流にして、本流を一度ステントで広げ、さらに支流だけをステントで広げた場合、本流との境目がただでさえ弱っている血管を痛める可能性がある。
細いほうをブロックしてしまうか、三方それぞれにステントをかけて分岐部分は血管の弾力に任せるか。
「……方法を探ろう」
「……そうね」
今すぐ、という緊急性は薄いとしてもなるべく早めに対処の必要がある。結果をすぐに送ってもらうことにして、白石と藍沢は医局に戻った。
ほとんど医局か処置室での立ち話で終わることがおおいが、検査の結果は循環器科の応援を含めて、カンファレンスにかけられた。
「いっそ、バイパスしたらどうでしょう?その方が再狭窄の確立も低いですし」
「しかし、他の血管もあまり太くはない場合は……」
カンファレンスの場でフェローたちは一歩下がり、ほとんどが聞くだけに回ることが多いが、救命の場合は違った。
「藍沢、白石。お前たちはどう思う」
橘はしっかりと彼らにも意見を求めてくる。
唇を噛みしめた白石はバイパスを避けたいとは思っていたが、それに代わる案が思いつかない。
まだ正解をみいだせないでいると、隣に立っていた藍沢が口を開いた。
「今回使用するステントに、事前に穴をあけておくのはどうでしょう」
「穴?」
「ええ。途中に穴を作っておいて、初めは太いほうに設置します。次にその穴を通してもう一本をかけるんです。これなら冠動脈側は二重になるし、分岐を心配する必要もない」
思っても見なかった方法だが、最近では動脈瘤に対して、カテーテルで瘤の中を埋めてしまう、という方法がとられている。カテーテルで使うワイヤーやステントを加工することは全くできないわけではないはずだ。
「だが、藍沢」
腕を組んでいた橘が難しい顔になる。
「その場合、穴の開いた方をコントロールすることも難しいし、少しでも穴の位置がずれてみろ。もう一本のステントを通すはずが血管を傷つける可能性もある」
「わかってます。だから、バルーンでステントを膨らませるときは二段階にします。途中まで開いて、一度ガイドワイヤーを通しておいて、もう一本、バルーンを通して広げる。少し広めにもう一本のステントを通す穴を確保しておけば問題ないはずです」
ふうむ、と唸る橘たちからも、大きな反対は出ない分、そのリスクをどうするかの空気が広がる。
「……それがいいかもしれませんね。加工に少し時間が必要ですが、十分に対策をとれば藍沢先生の案はいいかもしれません」
循環器科の後押しを得て決まった方針通りに、すぐに準備が始まった。
「真田さん。以上が、現時点で私たちの考えていることです」
カウンセリング室に通されて、今の状態の説明を受けた真田は動揺を見せることなく、淡々としている。
橘のとなりに座った白石が説明を受け持ち、その隣に藍沢が座っていた。
「なるほど……」
「リスクもゼロではありませんが、今の真田さんにはこれがベストだと思います」
「わかりました。ここにサインをすればいいんですね」
あっさりとそう答えて、目の前で同意書にサインをする。今日の日付を入れてペンを置いた真田は、手術日が決まったら教えてくれといった。
「もちろんです。それと、ご家族がいらっしゃらないということですが、ご連絡は劇団のほうに?」
「それで構いません。連絡先としてお伝えしている通りです」
「わかりました」
無機質さを和らげるため、そら豆のような変形したテーブルの上に載っているものが、同意書だなんてなんだかそぐわなさ過ぎて、おかしくなる。
置かれている同意書のすぐそばにある、テーブルの境をペンを置いた指でなぞった。