「……おかしいですね。一回も、二回も同じかなって思ってたんですが、急場で書くのとこんなに落ち着いてるときに書くのと、全然違う。当たり前が当たり前じゃないなんて、ありふれた台詞はなかなか使えないものなんですが……」
「真田さん……」
「あ、白石先生、そんな顔しないでください。大丈夫です。わかってますから」
立ち上がって、よろしくお願いします、と頭を下げる。いっそ、泣きわめいたり、動揺してくれた方がましな気がした。拍子抜けするほど、あっさりと書かれた同意書の重さに白石はため息をつく。
その手から藍沢がファイルを取り上げた。
「お前、今日は早く帰れ」
「え?」
「本当は休みだったろう。今日の今日ですぐ用意ができるわけじゃない。今日は早く上がって体を休めておけ」
珍しくも白石を気遣った藍沢に白石は首を振る。心臓は父親の専門だけに、いつも以上に力が入る。
本人としては、人の気持ちに鈍感だとは思っているが、実はそうでもなく無意識に察して、連勤続きの白石を気遣う。それがどうやら特定の方向に傾きかけていることには気づいていないようだが、傍で見ている分にはおや、と顔が緩む。
―― 若いねぇ……
片頬を上げた橘はひらと片手をあげて先にカウンセリング室を出ていく。
真田の同意書を拾い上げて藍沢の手にあるファイルに白石は手を伸ばした。
「大丈夫。徹夜続きとかもっとひどい時あるじゃない」
「お前が大丈夫でも患者が困る」
「本当に大丈夫だから」
言い出したら聞かない。
緋山も白石も、藍沢の同僚たちはどうしても一筋縄ではいかない相手が多い。
それ以上言っても無駄だと判断した藍沢は、勝手にしろ、と言い置いてファイルを机に放りだすと部屋を出ていく。
自分の腕に驕らず、自分自身にも過信しない。
―― わかってるはずだろうが……
白石の手に渡すには苛立ちが強かったのだろう。廊下に出てから藍沢が小さく舌打ちしたことに白石は気づかなかった。
忙しいことはわかっているが、休むべき時に休まないといけないと、周りを気遣うのが白石なのに、その自分が自分を気遣えなかったらだめだろう。
不安がゼロになることは絶対にありえない。
ナースステーションに戻ってきたのが、藍沢だけで、周りを見回した緋山は藍沢に近づく。
「ね、白石は?」
「カウンセリング室」
「戻ってこないの?」
それに返す言葉はない。
―― 不機嫌になっちゃって……
どんな時でも冷静だ、と言い張るくせに、この同僚はその無表情の下に沸騰寸前の熱を持っている。無言でもそろそろこの同僚の機嫌が読み取れるようになってきたらしい。
藍沢を怒らせた白石を探しに行こうかと腰を上げたところに、片手はポケットを、片手は頭を押さえた白石がナースステーションに戻ってきた。
「白石」
「何?あ、あたしなんかした?」
「そうじゃなくて。あんた、今夜なんかある?」
「ないけど……でも……」
徐々に尻すぼみになる白石に、はーっと大きくため息をついた緋山はぐいっと腕を引っ張った。
「夜、飲み行くから」
「え?……あの」
「絶対。じゃないと全額あんたのおごりだから」
にやあ、と意味ありげに笑った緋山に、えぇ~、と後ろから情けない声が聞こえた。
仕事終わりに緋山に強引なくらいに引っ張られた白石は、カウンターでつぶれていた。
「ちょっと。ブス、あんた連れてきたんだから責任取りなさいよ?」
小声でカウンター越しに文句一杯の顔でおかわりを差し出した恒夫に、緋山は首を振った。
「あの子の酒癖悪さ、わかってるでしょ」
「だからって……、あんたどんどん飲ませてたじゃないのッ」
「このくらいやらないと、あの子休まないんだもの」
腕を伸ばしてべったりとカウンターに張り付いたきり白石は動かない。
「じゃあ、なんでヨォ」
「だから今日は面倒見る奴連れてきたでしょ」
「だぁって……、あっちはあっちで……」
テーブル席の奥でウィスキーグラスを手にしている藍沢は例によって一人黙々とグラスをあけていた。
「いいのいいの。なんだかんだ言ってもあいつ、面倒見いいんだから」
「ちょっと。ちゃんと説明しなさいよォ」
「んー……」
からからと氷の音をさせてグラスを傾けた緋山は、隣でつぶれている同僚と後ろで淡々と同じペースで飲んでいる男を振り返る。
「あたしさぁ。あの二人、どっちも不器用なんじゃないかなぁって思うのよね」
「それはね?アタシもちょっとそう思うときもあるわァ。結局、器用な人こそ一番不器用だったりするのよねェ」
「だからさ。何があったのか知らないけど、今回は二人ともなんっか気にしてるのよね。しかも!すっごいぢみに静かなんだけど、なんかあるのよねぇ」
グラスを拭いていた恒夫は忙しなく手を動かしていたが、拭き上げたグラスは曇り一つない仕上がりだ。
「そのー、あれじゃないの。何とか式?っていってた人?」
「ああ、真田式?」
「そ、その人になんか言われたとか?」
「あるかもね……」
何を言われたのか、どんな話をしたのかはそれぞれにしかわからないが、いずれにしても時間は前にしか進まないものだ。
どんなに悩んでも楽しんでも悲しんでも、明日につながっている。
携帯の時計を見た緋山はカウンターのスツールから立ち上がった。
「んじゃ、あたしそろそろ帰るわ」
「え、ちょっと、ほんとにこの子とあっちどうすんのよ」
「一緒に座らせとけばそのうち何とかするわよ」
ぽん、と白石の肩を叩いた瞬間、がばっと体を起こす。
ぼんやりと目が座った状態で緋山の顔を見た白石にグラスを握らせる。
「ほら。白石!あんたあっちで飲みなさいよ」
「んー?」
「藍沢が一人で飲んでるじゃないの」
「……ああ」
ふらり、と立ち上がった白石は、壁に手をつきながら藍沢の隣に腰を下ろす。その隙をついて、ひらりと恒夫に手を振った緋山が店を出ていった。