「あいざわぁ……。飲んで……るぅよ?」
「ああ……」
半分眠りそうになりなっている白石に逆に体を寄せて、楽にもたれかからせる。
「ねぇ、藍沢……」
「……なんだ」
「もっと、好きなものとかぁ……、好きな人とかぁ……」
がくん、と頭が落ちてきて、そこで話が止まる。片手でその頭を支えて、藍沢は自分の肩の上に乗せた。
「あれ?……なんだっけ」
「好きなものがどうしたって?」
「あぁ、そう。そういうの。だからぁ、あると、あるとね。いんだってー」
何を言っているのか、さっぱりわからないが、からん、と氷を鳴らしながら藍沢はただ相槌を打つ。
「真田さんか」
「んー……。普通のおつとめのひとじゃないけど、しごとじゃない、なにか……」
「おい。白石、起きろ」
今度は本格的に落ちてしまったらしい白石に、藍沢はグラスを置いた。
カウンターから出てきた恒夫は、そのグラスの代わりに水のグラスを二つ置く。そして下げようとしたグラスを見てあら、と呟いた。
「ちょっとアンタ。ほとんど酔ってないんじゃないの……?」
「問題ない」
「問題ないってアンタ……。もう……、恵も恵だけどあんたも馬鹿ねェ」
馬鹿ねぇ、という恒夫の言葉を聞きながら、藍沢は財布から札を出して支払いを済ませると、片腕で白石を支えると立ち上がる。片腕を自分の首に回し、腰のあたりに腕を回して抱えながら店を出ていった。
それほど飲んだにもかかわらず、翌日なぜかすっきりした顔で白石は朝、姿を見せた。
「あれぇ?あんた、今日調子よさそうじゃん」
「うん。なんかねぇ……。覚えてないんだけど、すっごいよく寝た」
「……ああそう」
「緋山先生が送ってくれたの?」
―― なわけない!!ていうか、あの男、なにしたのよ?!
ロッカーの前で動きを止めた緋山に気づくことなく、機嫌よく着替えた白石は、ん?と振り返った。
「どうかした?」
「……じゃないからね」
「はい?」
「あんた、家で寝てたんでしょ?恒夫に家、教えてないんでしょ?」
なぜだか白石にはわからないが、じろりと睨まれて笑い出した。
「なぁんでよ。恒夫には教えるわけがないじゃない」
「じゃあ、あんたのこと、送って帰ったのは藍沢だから」
「え?そう?」
ふふん、と鼻先で笑った緋山に首をひねりながら医局に上がった白石は、珍しくも医局の自分のデスクに座ったまま目を閉じている藍沢を見た。
「おはよ……?」
控えめに声をかけるとびくっとして目を開けた藍沢が、声をかけたのが白石だと知ると珍しく動揺を見せた。
「お、おぅ」
「昨日、ぜんっぜん覚えてないんだけど、送ってくれたんだって?」
「いや、あ……。そうだ、まだやることが」
自分の席で作業をしていたはずなのに、慌てて立ち上がった藍沢は、机に脚をぶつけて、いてぇ、と呟きながら医局を出ていった。
手術の準備ができて、いよいよ真田の手術が明日の朝からに決まった。
夕方の面会時間には再び賑やかな病室になってしまい、緋山にもう一度怒鳴られた真田だったが、その後、自分の彼女を送ってしばらく病室からは離れていたようだ。
「あれ?……見つかっちゃいましたね」
「……何してるんですか」
病院のヘリポートがみえる廊下は、わざわざ出向かない限り、夜に通る人などいない。
ガラス窓が大きいだけに、冷え切っている。
そんな廊下のベンチにぽつん、と人影が座っていた。
非常灯と手に持っているらしい携帯の明かりがなければ、わからなかったかもしれない。
「藍沢先生はどうしたんですか?」
「……別に。ここは冷えるでしょう」
「そうっすね。だからジャケット持参で」
確かにダウンジャケットを肩から掛けていて、椅子の上に胡坐をかいているのか、これで暗かったら黒い塊にしか見えないだろう。
一つ間をおいてベンチに座る。
「いつからここに?」
「大丈夫です。冷え切る前に戻りますよ」
わかってます。
答えにはなっていないが、頷いた藍沢は手の中のコーヒーを転がした。自分だけですいません、と断りをいれてプルタブを引く。
「藍沢先生」
「……なんでしょう」
「好きなものはありますか」
漠然とした質問だ。
聞いた方も聞かれた方もそう思ったが、そこにあえて説明はいらない気がする。
「あまり、思いつかないですね」
「じゃ、それは?」
湯気が上がっていてもおかしくない、缶コーヒーを指されて珍しくも藍沢がわずかに笑った。
「あまり。缶じゃない方が好きですけど、仕事場では水のほうが多いですね」
「へぇ。そういうもんなんだ。僕もコーヒーよりはお茶かなぁ。年寄りくさいですね」
薄暗い廊下の先の窓から見える空を眺めて。
「真田さんは?」
好きなもの。
「いっぱいあるなぁ。いっぱいありすぎて選べないくらいだけど、芝居が好きでこの世界が好きで。……だからうまくいくといいなあって思ってますよ」
それが何を指しているのか言わなくてもわかる。
そこに言葉を重ねる気にもなれずにただ黙ってそこにいた。
「いいね。先生は、こう、大丈夫ですよーとか、それより早く戻れとか、こうしろ、ああしろって、そういうの言わないの、僕は好きですよ」
藍沢も駄目なものは駄目だときっぱり言うこともあるし、それはケースバイケースである。この場合、医者として絶対大丈夫とは言えないことと、それでも大丈夫だと言いたい葛藤はいつもと同じくらいあった。
保身だと言われそうなところなのに、それがいい、と真田は言う。
「……あなたも、変わってますよ」
「そうですかね?だってね。誰でも同じ人間でしょう?知識や経験が違うだけで。誰しも、仕事や好きなものからは逃げられないし、自分からも逃げられないから。結局、逃げたらこの舞台の上から降りるまでずっとお同じ場所を振り返るようになる。だから、どんな時でも、向き合うしかない」
「……芝居なら、そうかもしれませんが、俺たちの仕事では……」
間違うこと、逃げること。
その意味することはたった一つしかない。
だから俺は逃げたくない。
指先から手のひらを見つめる。
「……そう、ですねぇ」
静かな同意は静かな否定でもある。
あえて真田は追及しなかったが、結局、人のすることは同じ。
―― あ……
そういうことかと、思い至って隣に座る男の顔を、藍沢はまじまじと見つめた。
「好きな相手も、これが逆だったらたまんないですからね。そんな思いをいつまでもさせてられないので」
よいしょ、としびれた足を延ばして、真田は立ち上がった。
そろそろ戻ります、といって真田が病室に戻った後を追うように、ナースステーションに戻って、仮眠室で朝を迎えた。