くたくたに疲れ切って家に向かったリカは、それでも一つの番組をここまで内容の濃いもので始められることになったためであれば、その疲労感も無駄ではないと思えた。
電車に乗っている間に、緊張から解放されたからか、立っていても猛烈な睡魔が襲ってくる。なんとかそれに逆らって、大祐にメールを打った。
【これから帰ります】
すぐに返事が返ってきて、お疲れ様、とある。それを見た瞬間には、口元に笑みが浮かんだ。
仕事が充実してきて、ともすれば忘れそうになるが、藤枝からはきつく一人にはなるなと忠告を受けている。打ち合わせの際に、阿久津にも事情を説明して、極力遅くなる場合はタクシーで帰る様にと言われていた。
このところ、高柳の出番が全くと言っていいほどなくなったこともあって、どこかでリカは安心していたのかもしれない。顔を合わさずに済めば、すぐそばにあった緊張感は薄れていく。
地下鉄の駅を降りて、家まではすぐそこ、と思っていたリカは、疲れのせいもあって、どこか集中力にかけていた。だからこそ、ぼーっとしていた頭が、同じ歩調で歩く足音に気が付いた。
いつもならここはもっと人通りが多いか、全くないかのどちらかで、誰か近くに住む人物が同じ時間に駅を出て同じ方向に歩いていくことなどほとんどなかった。
―― ……まさか、痴漢?……まさかね。そんなわけないだろうし……
はっと思い当たったのは高柳の顔だった。リカの家を知っていて、特に今は顔を合わせるたびに睨むような視線を感じている。無意識に足早になって、少しずつ小走りになっても足音はずっとついてきた。
―― どうしよう、怖い!
ぞくっと怖さを感じたリカはすぐ目の前に見えてきたマンションの入り口にほっとして後ろも見ずに走り出した。
ガラスの大きな扉をおしあけて中に入ったリカは、内側のオートロックをあけて駆け込んだ。自動ドアが閉まるのも見ずにエレベータのボタンを押す。ちょうど下に向かって下りてきたところらしくて、矢印が下りてくる。
早く、と念じていると、がこんとガラス扉が開く音がした。オートロックがあるために、住人でなければ入っては来られないとは思っても、それ以上は怖すぎて振り返れなかったリカは、エレベータが開いた瞬間中に飛び込もうとして人にぶつかりそうになる。
「きゃっ!!ごめんなさい」
「リカ?!」
「え?!ええ?!大祐さん?なんで?」
どん、とぶつかってきたリカを抱きとめた大祐はリカの背後でガラス扉から出ていく人影をちらりと視界に入れた。
「うん。リカが帰ってくるってメールくれたから」
「それはそうだけど、そうじゃなくて!なんで?週末でもないし、約束も……」
一瞬、眉間に皺を刻みそうになったが、笑顔を浮かべるとリカを引き寄せてエレベータの中に再び戻った。階数ボタンを押して上に上がる間に、部屋でゆっくり話すからといって、ひとまずリカを連れて部屋に戻った。
部屋に入って、リカが人心地つくまで、大祐はリカの仕事デスクを借りて広げていた仕事をおいて、簡単な夜食を作っていた。
シャワーを終えたリカが嬉しい、何も食べてなかったの、と言って、それを口にしている間も疲れ切ったリカの傍に寄り添って座っている。
「ほんとに、ほんとにすっごく忙しくて」
「うん。忙しいんだよね。大丈夫、メールが短くても、連絡が少なくなってても疑ってないから」
少しだけおどけて応える大祐には、まだ番組の話はしていなかった。ただ、新しい企画としか伝えてなかったのは、ただ素直に放送を見て感じてもらいたかったのもある。
だから、ただ忙しいのだとしか言っていなかったのだ。
「あー、もう言いたい。言いたいんだけどなー」
よほど昼間の取材がうまくいったのか、話したくてうずうずしているリカなど珍しい。いわゆるナチュラルハイ状態に近いリカの背後を支えるように座って腕を回しながら話を聞いていた大祐がリカの肩に顎を乗せた。
「今日のリカはすっごくおしゃべりだね」
「ああもう、本当にそうだ。馬鹿みたいだけど、なんかね、この……ああもう。駄目、このまま私がしゃべっていたら黙ってられなくなっちゃう。大祐さんのこと話して?」
そういうと、出張だったの?と頬が触れるくらい近くにある大祐の顔を振り返った。
軽くリカの頬に口づけた大祐は、拗ねたような笑みを浮かべてどうしようかなぁと呟く。
「リカが話してくれないのに俺が話すのもなぁ」
「え?どういうこと?」
妙に意味深な言い方にリカがきょとん、とした顔で体の向きまで変えてくるので、いいから食べて、と押し戻す。もったいぶった大祐がリカに食べさせながら種を明かした。
「仕方ないから教えてあげる。今、自衛隊の取材をしてるでしょ?」
「え?なんで知ってるの?!」
空自の取材はまだ先で、しかも今回はブルーの出番もないだけに大祐にはあまり関わりがないはずだった。確かに、話が聞こえてくることはあるかもしれないが、それにしてもまだ先だと思っていたのだ。
驚いたリカにふふっと笑った大祐は、藤枝が知りたがっていた比嘉達の魔法の一部を教えてくれた。
リカが、阿久津から話をされて、突貫の二日で素案をまとめたところ、詳細は多少の直しが入ったがおおむねGOサインが出て、全体の打ち合わせが何度も行われ始めた。陸海空のそれぞれに対して、個別の場合と全体の場合とで問題点を洗い出してはすぐ、回答を用意する。当然ながら週末の予定もすべて入れられなくなった。
忙しいの、というリカに二つ返事で応えてはいたが、大祐は内心では寂しいという想いもあるにはある。そんなところに比嘉から電話がかかってきたのだ。
『こちら、空幕広報室の比嘉と申します。空井一尉いらっしゃいますか』
「比嘉さん?空井です。お疲れ様です」
このところ、地元のイベントが多くて空幕を通しての取材は少なかったのもあり、電話で話すのは妙に久しぶりな気がした。
『お疲れ様です。実は、空井一尉にお願いがありまして』
「はい?なんでしょう」
実は、ということで比嘉から今回の取材の件を聞いたのだ。
『ということで、今の広報にはパイロット経験者がいないんです。企画としても大きいものになりますので、室長から山本室長に連絡がいっているかと思いますが、空井一尉にも今回、臨時ということで一時的に、空幕に戻っていただいて、こちらで協力いただけないかと』
「すごいですね。そんなことってできるんですか?」
いくら期間限定とはいえ、担当業務のある隊員を違う部署に出向させるのはなかなか大変な事のはずだ。それなのに、いつも以上に落ち着いた比嘉は即答してきた。
『こちらでしっかりと調整して、内局の申請も降りていますので問題ありません。期間は今のところ明確にできないので、延長ありということになっていますが、そちらの仕事を早急に引き継いでいただいて、こちらにきていただけないでしょうか』
当然のことながら、今回は空が取りまとめをすることで、陸と海に貸しを作ったことになる。ちゃっかり、空だけは一番長い放映時間をもぎ取っていたのもあって、内局の許可は思いのほかあっさりと下りたのだ。
受話器を握ったままの大祐が左手を振り返ると、山本の席がある。たまたま今は席を外しているが、代わりの誰かにすべてを引き継ぐとしたらやはり幾日かはかかるだろう。
「一旦、こちらでも調整してからご連絡でいいでしょうか?」
山本が席を外していることを告げて確認を取るともちろん構いません、と答えが返ってくる。ふふっと最後に比嘉が笑った。
『空井一尉とまた仕事が一緒にできますね。楽しみにしてます』
それは自分も同じだと思う。震災で空幕の残り期間を放り出すようにして異動した自分こそ、もう一度あの場所で仕事ができるなんて思ってもいなかった。
「こちらこそ、機会をくださってありがとうございます」
『それじゃあ、連絡お待ちしてます』
電話を置くと、あれこれと頭の中にいろいろなことが浮かんでくる。山本が戻るまでに、今自分が抱えている仕事をまとめなおして、戻りを待つことにした。