髪を洗って、一度化粧を落としたリカは、バスルームを出ると、洗面所に置いてあった基礎化粧品だけをつけた。化粧道具は部屋の方へと置いてある。
着替えを済ませて、軽くドライヤーをかけた後、バスルームと洗面所を整えてから部屋に戻る。
「すみません。お待たせしました」
「はい。勝手にテレビ……つけ、ちゃいました」
「ええ、もう、どうぞ。……ってどうかしましたか?」
空井が目を丸くしているので、すっぴんで伏せていた視線を上げると、慌てて顔をそむけられた。
何か変だろうかと自分の姿を振り返ったリカに、空井はぱたぱたと手を上げてから立ち上がる。
「いや!なんでもないです!はい、すみません!じゃあ、ちょっと洗面所をお借りします!」
リカのすっぴんはなかなかのもので、ほとんどかわらないはずなのに、ひどく幼く見えた。
風呂上りのいい匂いと相まって、動揺してしまった。急いで洗面所に入った空井は、閉めたドアに寄り掛かって、がくっと頭を落とす。
「やば……。手、伸ばしそうだった……」
そのままリカの腕を掴んで抱き寄せそうになった自分が踏みとどまったことを我ながら褒めてみる。
あそこで手を伸ばしていたら、今日一日、一緒にいられなくなったかもしれない。
リカの残り香が漂う洗面所で、思い切り冷たい水を出すと、ばしゃばしゃと顔を洗った。
畳んで、傍に置かれていたタオルを借りると、それもいい匂いがしていて、くらくらする。
―― やばいな。俺、理性持つかな……
顔を拭ったタオルの匂いを思い切り吸い込んでから、自分の行動にこれじゃあまるで変態だと、あたふたしてしまう。
タオルを置いて、両手で顔を覆った空井は、どこもかしこもリカの匂いに包み込まれるようで深いため息をついた。
空井が洗面所に行った間に、急いで化粧を済ませたリカは慌てて飛び起きて乱れていたベッドを直した。いくら服は着たままだったとはいえ、恥かしくて顔から火が出そうになる。女性として内側を見られてしまったようなひどく落ち着かない気持ちで、頭を振って少しでも忘れようとして、手早く化粧を始めた。
すぐでも出かけられるようにして、キッチンと部屋を往復しているとかちゃっと音がして洗面所から空井が姿を見せる。
「ありがとうございます。置いてあったタオル、お借りしました」
「はい。全然大丈夫です。すぐ、でますか?」
「あ、そうですね。稲葉さんはもう出られます?」
薄らと化粧をしたリカを眩しそうに見つめた空井に、ぱっと自分の姿を見てからこくこくと頷く。
「すぐ、でもいいです!空井さん、車置いたままですもんね」
「ああ、そんなことは気にしなくて大丈夫ですよ。1日おいても、上限があるところに置いてますし。ゆっくり支度してくれて構いませんよ」
「いえ、すみません。こんな格好ですけど」
ふわっと女性らしい広がったスカートにカットソーという可愛らしい姿のリカが恐縮して頭を下げる。所々、髪の毛の先が濡れていて、オフのリカが目の前にいて。
「こんな格好って……。オフの稲葉さんってこんな感じなんですね」
「あ、はい。なんというか、仕事の時はパンツが多くて、私服でごくたまにしかスカートなんて着ないので……。変、ですか……?」
「いえいえいえいえっ!!」
ぶんぶんっ、と音がしそうなくらい首を振った空井が、全力で否定する。
変と言うより、いつものリカとのギャップの激しさだ。
「全然。あのいつもの稲葉さんと雰囲気が違ってて、すごく素敵です」
「ありがとうございます……」
「じゃあ、なんか急がせたみたいであれですけど、自分、車持ってきますんで稲葉さん、ゆっくり降りてきてください」
少しでもリカに支度の時間をと気を使った空井は先にリカの部屋を出ることにして、先に玄関に向かう。
「あ、あの」
「15分くらいかかると思うので、ゆっくりでいいですよ。自分、下についたらそのまま待ってますね」
言うだけ言って部屋を出た空井は、玄関のドアを閉めた瞬間、大きく息を吸い込んだ。
甘い、リカの香りから解放されて、はぁ、と大きくため息が出る。もっと近くにいたいような、歯止めがきかなくなりそうな。
「……よしっ」
ぱっと大股で歩き出した空井は、車を置いてある所へと足を向けた。
残されたリカは、簡単にしていたメイクをもう一度整えて、姿見の前で自分をチェックする。確かに緩い恰好かもしれないが、オフらしくていいと空井が言ってくれていたのもあって、これでいいことにした。
バックを手にすると、ジャケットを羽織ってショールを巻くと慌ただしく部屋を後にする。空井と、一日一緒に過ごすことがまだ信じられなくてふわふわとした足取りでマンションの下に向かう。エレベータで下りてエントランスを抜けると、オートロックの自動扉の向こう側にもう一枚、ガラスのドアを開いて左右を見ると、ちょうど空井の車が止まったところだった。
駆け寄ったリカを見て、空井が助手席のドアを開く。
「ジャストタイミングですね。どうぞ」
「ありがとうございます。後でガソリン代と駐車場代、請求してくださいね」
「律儀だなぁ。わかりました。じゃあ、後程」
リカがシートベルトを締めるのを待って、ゆっくりと車が動き出す。
大きな道路に出て空井はカーナビを見ながらウィンカーを上げる。
「稲葉さん、何か食べたいものありますか?あ、その前に二日酔い、大丈夫ですか?」
「あ、はい。私、滅多に二日酔いになったことがないんです」
「マジですか?それすごいなぁ。自分、よく、次の日頭が痛かったりしますよ」
滑らかな空井の運転は昨日も思ったが、安心して任せていられる。どこに向かっているのかはわからなかったが、何か目的があるらしく、どこかを目指しているように思えた。
「じゃあ、いわゆるデートコースになればいいんですけど、せっかくなんで横浜の方なんていかがですか?」
「あ、はい。もう、空井さんにお任せします」
「了解です。じゃあ、途中でランチにしましょうね」
信号で止まったタイミングを狙ったように、空井がステアリングに腕を乗せた格好で顔だけを向ける。本当に、カップルのようなシチュエーションに、リカは酔いそうになった。
「そ、空井さん、いつも、こんな感じでドライブデートされるんですか?」
「いつも?いつもなんてしませんよ。こっちに来て一人で運転するか仕事で誰かを乗せるくらいで、プライベートで誰かを乗せたのは稲葉さんが初めてです」
―― プライベート!……私が初めてって。だって、プライベートの飲みはまだ一度だけなのに、まさか、本当に……
今まで出会ってから何度も、心臓が止まりそうなほどドキドキさせられてから、地面にたたきつけられた前科がある。それを思うと、にわかには信じがたい思いだった。
「でも、だって、なんだか、すごくなれてていつも女性を乗せて出かけてるのかなぁって……」
「そんな相手いませんてば。もう、見てればわかりますよね?飛行機馬鹿って片山さんにも言われるくらいですよ?」
高速に乗った方がスムーズなのはわかっていたが、ドライブだということもあって、下道をそのまま走る。ナビに表示されている時計を見ればまだリカが目を覚ましてから30分たったかどうかというところだ。
こんな風に強引に連れ出したのに、助手席に座っているリカは、本当にいつになく可愛らしかった。