「……でたよ。ガツガツしやがって」
無表情で通すけど、私にはしっかり聞こえている。
というより、この手の聞きたくない事ばかりしっかり聞こえてきて、覚えているのは馬鹿だと思う。我ながら。
「いいから、やるべきことはちゃんとやってください」
「はいはいっと」
「お願いします」
言うべきことは言った。打ち合わせは終了で、手帳と資料を手に立ち上がると、再び背中から暴言が聞こえてくる。
「可愛くねぇんだよな」
はいはい。そうですね。
わかってます。いつもの事ですから。
胸の内でそう答えると、自分の席に戻る。
腕時計はとっくに出なければいけない時間を過ぎていて、手帳と携帯を鞄に突っ込むと、落ち着く間もなくジャケットを手にフロアを横切った。
局を出て駅に向かう間に、遅れることを連絡する。
「お世話になっております。帝都テレビの稲葉です。申し訳ありませんが、少しお約束の時間に遅れます」
一息にそう告げると、電話のむこうからわかりました、と返ってくる。
「このあとはあけてあるので気にせずゆっくり来てください。お気をつけて」
「ありがとうございます。じゃ」
時間がないからさっさと通話を打ち切って、電車に乗ると、いくらもかからずに目的の駅につく。
もっと駅に近ければいいのにと思いながら、緩やかな坂道を上がって、出入り口で入館証を手に入れると、さらに階段を上がらなければならない。
―― 都内なのに、こんなアップダウンなんていらないんだけど!
毒づいても時間に遅れているのは自分だ。
急いで坂を上がって、通い慣れた建物の正面から入ると、エレベータに乗る。
目的の部屋に入る前に大きく息を吸い込んで、息を整えてからいつものように声をかけて中に入った。
「お待ちしてました。こちらへどうぞ」
姿を見せた私を目の前の席で迎えてくれた空井さんは、立ち上がって、折り目正しい姿勢のまま私を案内してくれる。
礼を言って、応接に腰を下ろした目の前にいつもならコーヒーが置かれるのにブルーのミネラルウォーターが置かれた。
「どうぞ。稲葉さん、急いできただろうから喉乾いたでしょう」
「……ありがとうございます。頂きます」
その言葉に甘えて、ぱっと手を伸ばしたのに、ぐっと力を入れても手が滑って開け難い。
手を変えて、開けようとしていると、貸してください、と手が伸びてきてペットボトルを奪っていく。
ぱきっと一ひねりでキャップが緩み、零れない程度にキャップが戻される。
「はい。どうぞ」
「……ありがとうございます」
「ちょっとそれ、固いですよね」
そうですね、と言いながらやっとあいたペットボトルを口元に運んで、ごくごくっと一息に飲んでからキャップを戻す。
その一連の動きを見ていた空井さんが妙なことを口にした。
「やっぱり、可愛いですね」
は?!
ぎょっとしていると、同じようにその一言にそ知らぬふりで仕事をしていたほかの人の視線が一気に集まる。
私が驚いた顔をしていると、はっと我に返った本人が大慌てで両手を振り回した。
「あっ!いや、違います!可愛いっていうのは、キャップが開けられないなんて、やっぱり女の人だなとかっ。そう思っただけで」
「……いつもはこんなの開けられます!今日はたまたま」
「そうですよね。たまたまですよね。すみません、変なこと言って……」
そうだ。そんな変な事言わないでほしい。
可愛いなんて言われた事ないんだから。
胸の内でそう反論すると、可愛げのなさに拍車がかかったような勢いで、仕事の話を始めた。
だから。
そんなこと忘れていたのに。
撃墜されたのだと理解できずにいた私を、輸送機から降りてからもこっちですよ、と手を引いたその人が送ってくれる車の中で言った。
「稲葉さんは可愛いです」
「そんなこと言われた事ありません」
速攻で言い返した私に、目を丸くした空井さんは手を伸ばして優しく私の頭を撫でた。
「じゃあ、僕が何回でも言います。稲葉さんは可愛いって」
嘘でしょう。
私の口は、可愛げもなくそう言った気がする。今ではよく覚えていないけど。
「リカ」
「リカさん」
「リカぴょんってば」
何度も繰り返し呼ぶから、拗ねていた私はだんだん堪えきれなくなって、振り返ってしまう。
「なんですか!もうっ」
「怒ってても可愛いなぁって」
「……っ!……そんなこと言われたことないです」
絶対に嘘だ。こんな可愛げのない私に、しかもこんなつまらないことで怒っている私が可愛いはずがない。
そう思った私の頭をぽんぽんと大きな手が優しく撫でた。
「忘れたの?何回でも言うって言ったよね」
聴きたくないことは忘れないのに、覚えておきたいことはすぐに忘れたつもりになるのは、何度でも言ってほしいからかもしれない。