「私、握手って苦手かも」
「なんだよ、いきなり」
からん、と細身のストレートのグラスを手にした藤枝が隣に座る私を呆れたように見る。いつもの店でいつものカウンターで同僚相手のボヤキ。
手を握ったり開いたりして自分の掌を眺めていると、握られた手の感触が戻ってくるみたいだ。
「だって、あんまり握手することってなくない?」
「んー……。まあ、仕事じゃ少ないかな。女の子の手ならよく握るけど?」
「あんたねぇ。いつか刺されるわよ?」
人を呆れた目で見るけど、アンタだってと睨みつける。女の子の手限定なんて一緒にしたらあの人に失礼な気がして、おどけた格好で俺の愛はたくさんあるの、という藤枝の目の前からチーズの一切れを奪った。
私にはわからないけど、こういう藤枝をいいっていう女の子たちがいる限り、変わらないんだろうな、と思う。
カウンターの上に置いたままの手の上に、冷たいおしぼりを乗せられて我に返る。。
「そうじゃなくて!だから、手を握るとか、握手ってあんまりないじゃない。だから、なんか……」
ん?と眉を上げてくる藤枝の視線を避けるように手の上に乗せられたおしぼりを握りしめてから、テーブルに置いて、自分のグラスを頬にあてた。
ぱっと躊躇いなく握られた手が大きくて、温かくて、不思議な感じがして、ドキドキしちゃったから。
「どうしていいかわかんなくなって、苦手だなって思ったって言う話」
「はっはーん。あれだろ。例の、空自の空井君?」
「違っ、違うよ?たまたま、たまたまだから。勢いって言うか、お互い頑張りましょうみたいなのとか、ちょっとアイデアを提供して、それで、お礼にとかそういうんだから!変な意味ないから」
どぎまぎした自分の気持ちまで見透かされそうで、慌てて否定する。
藤枝のにやにやした顔が嫌で、頬にあてていたグラスからビールをぐいっとあおった。
「へーえ。確かに、腕汲んだり肩抱いたりっていうのはちょっと可愛い女の子にはいくらでもできるけど、手を握るとか、手を繋ぐってのはあんまりないかもな」
「でしょ?!そうなのよ」
だから、驚いただけなのよ。
いきなり、踏み込まれたような気がして。
「急接近されちゃったわけか」
「そう……。って!!違うから!!」
自分からばらしていることに今更気づいて、慌てて否定しても、もう遅い。したり顔で頷く藤枝に赤くなった顔をまじまじと見られているとますます恥ずかしくなって、違うんだってば、と繰り返す。
「珍しい。お前がそこまで動揺するなんてな」
「動揺してないから!」
「じゃあ、貸してみろよ。手」
ぱっと差し出された手をぱしっと握っても少しも動揺しない。
そんなの当たり前だ。だって、相手は藤枝だもの。
少しも動揺しないどころか、なんだか居心地が悪い。こういう場面を見られたら、また付き合ってるって誤解されるだろうし、そうでなくても自分自身がありえない。
「ほらな?」
「だって……、相手があんたじゃねぇ」
同期で飲み会の数も多かったし、新人の頃はあちこちで組まされて、ともみと一緒になんだかんだと幹事なんかもやらされていたから。わざわざ手を繋ぐことはなくても、ハイタッチしたり、手に触れることだってなくはない。
まして女あしらいのうまい藤枝である。
酔っぱらった時は手を引かれて帰ったことだってあるのに、今更ドキドキするはずがない。
「あんたの手にどきどきするようになったら終わりじゃない」
「まあな?だからこそ、空井君にはドキドキしたんだろ?なんだかねぇ。急に“女”になっちゃって」
「もともと女です!」
馬鹿だなぁ。
そう言いながら、藤枝はビールのお変わりを頼む。目の前のチーズを細いフォークですくいあげた藤枝が、ぱくっと口に入れた後にフォークを置いた。
「馬鹿じゃないわよ」
「馬鹿だよ。お前、自分でわかってないわけ?」
急に握手とか、手を握ることを意識するようになったのは、空井さんのせいだって。
―― わからないわけない……
今まで、好きな相手がいても、付き合った相手とさえ手を握った記憶はない。そのくらい久しく握手なんかしたことなかったのに。
手を握るなんてそんなことに今更、こんなにもドキドキするなんてなかった。
他の誰の手に触れられても絶対に上書きされてくれない。
離した手をカウンターの明かりにかざしてみる。
「わからないよ……。そんなこと」
さらりとして大きな手で包み込まれた。
私、この手に残る感触を、覚えている。