「ついてる」
「えっ?」
「髪の毛」
ああ、ごめん。
あっさりと返ってきたのは返事だけで振り向きもしない。
はらった髪の毛はそのままカーペットタイルの床の上に落ちた。
綺麗好きでもなんでもない。まして自分の部屋でもなければ彼女の部屋でもない。
誰かが掃除をする職場である。
俺もそんなことに気にするほどまめな男じゃない。
原稿を取りに来たついでにあちこちの席を歩き回って、コミュニケーションを深める。
「藤枝さん、今度稲葉さんのナレーション噛んだら、おごりのランチ、今度担担麺になったってほんとですか?」
局の近くにはランチにはちょっと高いが、うまい担担麺の店がある。
ここいらじゃ有名で、局に来たゲストや来訪者など、少し歓迎する際にはちょうどいい値段と味だ。
情報局のコーヒーを勝手に飲みながら、なんでだよ、と呟いてしまう。
「なんでそんなこと知ってるの」
「だって、稲葉さんと珠輝さんが話してましたもん。私も食べたいですー」
呑気に笑うアシスタントの女の子たちに苦笑いを向けて、それならランチじゃなくて、ディナーを一緒にどう?と話を変えた。
明るい笑い声を聞きながら時々、彼女たちのボディタッチが腕や肩に触れる。
ワイシャツ越しに感じる一瞬のスキンシップは嫌いじゃない。
プラカップが唇に触れる感触も紙カップよりはこっちの方がいい。そんな無駄なことを考えていると、背後に腕を組んだ稲葉が立っていた。
「いい加減にしなさいよ。そろそろナレーション録りいくから」
その姿はまるで鬼教官だろ、と突っ込みたくなる。ナレーション原稿と、携帯と、ノートPCを抱えた稲葉が先に歩き出すと、仕方がない。
「残念。じゃあ、俺そろそろ行かないと」
カップをコーヒーコーナーに返して、稲葉の腕を掴んだ。
「待てって。俺様がいかなきゃ始まらないだろ?」
俺の手には原稿だけ。ひょい、と女子用の弁当箱みたいなPCの電源と、ノートPCを稲葉の手から取り上げた。
「ナレーション録りの最中もほかの仕事する気かよ」
「仕方ないでしょ。メール待ってるんだから。ほかの仕事の連絡待ちなのよ」
歩きながら差し出された手を無視して、そのまま録音ブースのあるスタジオに向かう。そこには準備のために先に入っていた珠輝がいた。
「お。珠輝ちゃんもディレクターらしくなってきたじゃーん。だったら、お互い修行中ってことで噛んでもランチの奢りなしにして?」
「駄目ですよ。藤枝さん、そういう時って絶対噛むんだから。稲葉さんに聞いたんです。ランチかけてないとあいつは絶対2回は噛むんだからって」
「ちょ、おーい!お前、いい加減なこと言うなよ」
振り返って、目の前をすたすた歩いていく稲葉の肩を掴んだ。
だが、相手は鉄壁のチーフディレクター。
掴んだ肩をくいっと下げて交わすと、ミキサーの前の椅子に腰を下ろしてしまった。
「ほら、珠輝。始めるよ。いつまでも藤枝のペースに乗せられないで」
「わかりました。でも、私、ちゃんと先に入って準備してましたし、藤枝さんのペースになんて乗ってませんから」
きっぱり否定するところは相変わらずだなぁと思う。
あの稲葉に対して、こうやって堂々と言い返しながらもちゃんと先輩の指導に従っているからか、珠輝はこのところ、めきめきと頭角を現している。
「あのなぁ。そこの二人、俺の扱い雑じゃね?」
不満をぶつけると、紙カップにコーヒーを注いだ珠輝がそれを差し出した。
「はい。じゃあ、始めてください」
「お、おい!!」
ちょっと待て、という俺をぐいぐいとブースに押し込むなんてこいつらやることが似すぎている。
仕方ないな、と机の上にカップを離して置くと、原稿を広げた。モニターには色確認のバーコードが出ていた。
「ねぇ。稲葉さん」
「ん?」
「藤枝さんって、知ってます?女の子とデートしても絶対腕を組むんですって。稲葉さん、手つなぎ派ですよねぇ?」
「ぶっ!!なんでそんなこと知ってるのよ!」
ブースの中には聞こえないが、ガラス越しに稲葉が動揺しているのが見える。どうやら珠輝に何かを突っ込まれているらしい。
―― いいぞ、やれやれ!
そう思いながら仮で流れ始めた画面に合わせてナレーションを読み始める。画面の下には恐ろしい勢いで回るタイムカウントが回っていた。
「だって、前に稲葉さんと空井さんが一緒に帰るとこ見かけたんですよ。ただの手つなぎじゃなくて、こう、指まで絡めちゃって~っ」
「いいから!!そんなことは!!ほら集中!」
「え~、だって、藤枝さん。勝手に練習して勝手に始めてるからずっととりっぱですよ。後でちゃんとしたところだけつなぐから大丈夫です」
もうすでに録り始めているのだと言われれば、納得する。ああそう、と急にトーンダウンしたリカは、そういえば、とガラス越しの俺を何やら指差した。
「あいつ、手を繋ぐわけじゃないけど、腕を掴んだりよくやるわよ?」
「それ、稲葉さんだけですよう!1回や2回、デートしたくらいじゃとてもありえないって言ってましたよ。お泊りしたって手を繋がないってちょっと意味深じゃありません?」
「お泊りって……。まあ、手を繋ぐのはちょっと恥ずかしいんじゃない?」
「えー?じゃあ、稲葉さん、その恥ずかしいことしてるんですか?」
そうじゃないから!!
ああ、また何か言い合いしてる。気になってついつい噛んじゃったじゃないか。
その瞬間、聞き逃さないとばかりにブースの中と外を繋ぐインカムのスイッチが押された。
「はい、今ので噛むの二回目ね。おごり決定」
「おい、うそだろ?!練習は数えんなよ」
「何回練習すんのよ」
がう、と噛みつく真似をした俺へガラス越しにデコピンと指をはじいてくる。
それを見ていた珠輝が腕を組んで首をひねっていた。
「絶対、藤枝さん。稲葉さんにだけですよ、腕掴んだり、肩に触ったりするの」
「そんなわけないから」
―― インカム、入ったまんまなんだけど……
本人にばれてなければまあいいけどね、と思う。腕を組むのは彼女たちの方から自然としてくるから構わないが、自分から女子のバックを持ったり、手を繋いだりなんて、恥ずかしいことできるか、と思わず叫びそうになる。
「おい、稲葉。聞こえてるぞ」
「あ」
次の瞬間、再びブースの中は静かになる。まるで聴力検査のように圧迫感のあるブースだが、それほど俺は嫌いじゃない。
―― そう。それとただ同じだけなんだ。腕を掴むのも、肩に触れるのも
それほど嫌いじゃないから。ほかの誰に触れなくても。
ただそれだけのことなのだ。稲葉だけが特別なのは。