くんくん、といきなりワイシャツの匂いをかがれると、さすがに彼女でも驚く。
「何?どっかの女の匂いでもついてた?」
「違うけど……。藤枝さんていつもいい匂いさせてるなって」
香水でもないけどなんだろう。
今日一緒にいる彼女はそんな風に言って、ソファに投げ出してあるワイシャツから離れた。指先につけた自分の香水を俺に近づいてきて、耳の後ろにさらりと触れる。
「ふふ。帰るまでは私の香り、連れて行ってね」
大人な彼女なのに、こんな粋なことをする。
バスローブを着た彼女を抱き寄せて、香りの主も連れて帰りたいなー、なんて煩悩を漏らしてみる。
そんな翌日。
「おう。稲葉、おはよ」
「おはよ。早いね」
そりゃあ、家には帰らなかったから、更衣室でワイシャツを着替えるために早く来たからだ。
そんな余計なひと言は言わずに、込み合ったエレベータの中ですぐそばに立つ。
keep quietとシールが張られたエレベータの中は、人が多いのに沈黙が広がる。
朝の出勤時は余計に上がっていく回数表示だけを睨みつける社員でいっぱいだ。
「……?」
ふわりと鼻先を掠めた匂いに、記憶がかすった。
ぽーんという音と共に、到着したフロアに降りる。
「じゃあね」
ひらひらと手を振った稲葉をなんだっけ、と思い出せない何かのために見送ってしまう。
喉の奥に刺さった小骨のように、気になりながら自分の席に向かう。
―― どこかで掠めた何か
記憶力は悪くないはずなのに、なんだかひどく悔しい。
そして、まさに小骨のように、時には気にならなくなって、またしばらくすると喉の奥に違和感を覚える。
どうしても確かめたくて、仕事の合間に情報局に向かうと、席に座っていた稲葉の隣に腰を下ろした。
「何?藤枝」
「……わかった」
「何が?」
「空井君来てるんだ」
「!!」
それまでぱちぱちとリズミカルに叩いていたノートパソコンがばちばちっとおかしなリズムになって、真っ赤になった稲葉が俺の方を向いた。
「な、何言って」
「だって、お前から空井君の匂いがする」
「えっ!!」
くんくん、と自分自身の匂いを嗅いでいる稲葉は気づかないかもしれない。大体、自分の匂いは自分自身ではわからないものなのだ。
そう言えば、今日の稲葉はジャケットを着ているうえにいつもはあまり着ない、襟のついたワイシャツを着ている。
「で?空井君、来たんだろ?」
「……出張で、昨夜から……」
「へーえ。明日は金曜だし、そのまま週末までいるのか?」
こくん。
真っ赤に染まった耳を押さえた稲葉がどうしてだろう、と呟く。
「お前、わかってないの?」
「え?」
「その香り、男物だろ?」
もう一度自分の匂いを嗅いでも、稲葉にはきっとわからないだろう。部屋にいる間にその匂いに囲まれて抱きしめられていたのだろうから。
椅子を前後逆にして座っていた俺は呆れるのを通り越して、背もたれについた腕の上で笑い出した。
「やるなぁ。空井君」
「何がよ!ちょっと教えなさいよ」
「だからさ、男物のコロンだか香水だかだろ?自分の匂いをつけたのか、お前にくっついてて勝手についたのかは知らないけど、マーキングだろ」
「嘘……!!」
顔にまで血が上ってくるのを抑えられない稲葉が顔を覆ってしまうのを見ながら、やってくれると内心では舌打ちをする。
近づけば男の香りをさせているなんて。
虫よけにしては、たちが悪すぎだ。やられたな、と思いながらその場を離れた俺は、今日は絶対家に帰ると心に決めた。
明日は街角グルメの取材である。匂いはつけられないだろうから、特に要注意で稲葉は来るはずだ。
普段から鞄に小さなコロンは入れてある。仕返しにつけてやったらあの男はどういう顔をするだろうか?
全く、飽きさせないカップルだと思いながら、二人の痴話喧嘩を想像して、口元が歪んだ。
こ、このお話がまた読めるなんて・・・。繰り返し読みたくて、どうして印刷してなかったのかずっと悔やんでました。
「所有権の証明」というタイトルだったんですね。狐さんの五感のお話どれも大好きなんですが、特に藤枝バージョンのコレと「俺の目に映るもの」は、何度読み返したかわからない作品です。リカに五感全てが反応してしまう藤枝が切ない・・・。
駆け込み需要の疲れが癒されました。有難うございます。
シナモン様
いらっしゃいませ!駆け込み需要のお疲れをいやすための31日のキャンペーンいかがでしたでしょうか~。
藤枝の狡い女もぜひ!