月曜日の午後二時過ぎ。
その日はいつになく静かだった。
救急の電話は一度も鳴らず、HCUやICUからそれぞれが昼に合わせて食堂で顔を合わせる。
「お、そっちも今から?な、今日、結構静かじゃね?」
男にしてはテンションもキーも高い藤川がいつも以上に明るく近づいてくる。トレーの上には、カツ丼と、サラダにみそ汁が乗っていて、そのメニューからしてもいつ呼び出されてもおかしくないとは少しも思えない。
無言で同じテーブルに座っている藍沢はシチューらしきボウルと手にはパンを持っていた。
ちぎって口に運び、そして白いボウルから一口すする。
ちらっと視線を向けただけで、黙々と食べ続けている藍沢を見ながら白石と緋山はサラダボウルだけが乗ったトレイをテーブルに置いた。
緋山はポケットからそのトレイの上にサプリのケースを取り出す。
「確かにね。そっちも?」
「おう!みんな、症状も安定しているし、いいねぇ。こういう日は」
「あたし、今日、合コンいこっかなー」
不愛想に見えてなんだかんだと藤川の相手をするのは緋山である。
サプリを水で流し込んでから、しばらく時間を空けるために携帯を取り出した。携帯のメールを見ながら二つ折りのボタンをポチポチと親指で操作する。
「なんだよ。たまには早く上がれるならみんなで飲みに行こうぜ?」
「うるさい」
「うる、……うるさいってのは、ないだろうが」
箸を使わずにスプーンでどんぶりを掻きこみながら、藤川は口の端についたご飯粒を口に入れる。
胸のポケットに無線を入れているのは白石だ。
「合コン、何時から?」
「ん?七時」
「じゃあ、カルテの整理、やっとくね」
「ほんと?あ、でも!」
ぱちん、と携帯を閉じた緋山は手にしたフォークで白石を指した。
「オペ、来たらやるから!絶対」
「はいはい」
いつもの通り軽く受け流した白石が半分ほどボウルの中を片づけた時だった。
無線から聞こえてくる呼び出し音に立ち上がった白石は片づけを頼んで走り出す。
処置室に走りこんで電話を受けている橘の傍に立った。
「ええ。はい、……33歳男性。胸の痛みを訴えている……。心電図?」
目線を合わせた白石はうなずいて、振り返った先にいた看護師に指示を飛ばす。
「心臓外科に連絡。心カテ室の空きも」
「はいっ」
ナースが走っていくのを見送って、電話を切った橘を振り返る。
「そうだな」
手元のホワイトボードには、2年前カテーテル、と書かれていた。
白車が到着するのを出迎えに出るために、白石は救急搬送を受け入れる出口に向かう。その後から緋山が追いついてきた。
「心筋梗塞?」
「さぁ……」
「これはオペかな」
腕を伸ばした緋山は片腕を頭越しにぐっと引いて、そのまま体をしならせる。
その姿を見てから白石はかすかに聞こえてきた救急車のサイレンに耳を傾けた。
到着した救急車からストレッチャーが下ろされて、少しも柔らかくない毛布を掛けられた男性が姿を見せる。苦しいのか、眉間にしわを寄せて、頭をせわしなく振っている。
「真田さん、病院ですよ。つきましたよー」
妙に大きな声で間延びしたようにゆっくりと話す癖。
いつの間にか、誰かの振る舞いがそのまま身についてしまったような気がするが、本当は違う。それにも意味があるからだ。
そのまま処置室に運び込んだ後は、互いに声をかけながら待ったなしに動いていく。
それから数時間後。
「んで、結局?」
「心筋梗塞。即カテ室行き」
「うぉ、お前やったの?」
藤川と緋山がカルテを書きながら話をしている後ろでは、パソコンを眺めている藍沢がいた。一般病棟のほうからは、時間的には夕食も終わった頃なのに漂ってくる食堂の匂いに嫌でも腹が空いてきたのを自覚してしまう。
「うらやましいんでしょ」
「そりゃー、お前……、って合コンいかねーの?」
「それがさ……」
緋山が声を落としたところに白石が戻ってくる。なんだかんだと言いながらもいつものやり取りだ。
「あの人、劇団の人なんだって。ちょっと軽そうなのがタイプじゃないんだけど」
緋山のそんな一言に白石は苦笑いを浮かべて戻ってきたカルテを棚へと戻す。
そして、静かに終わるはずだった一日はその後から立て続けに鳴り始めた電話でひっくり返される。
「はい。翔北救命センター」
音を聞いただけで反射的に彼らの体が動く。長い夜はまだ入り口に立ったばかりだった。
* * *
火曜日の朝七時。
「誰よ?!静かだ、とかなんとか言ったやつ!」
「……うるせぇな。俺にあたんなよ」
「あたし、昨日、合コンだったんですけど?!」
ICUで並びのベッドのデスクでカルテにペンを走らせている緋山と藤川は何度も目を大きく開く。結局、寝る暇どころか夕食さえろくに食べる時間もなく、緋山のイライラはマックスの状態だ。
「……くくく」
思いがけない場所から笑い声が聞こえてきて、緋山は一瞬顔を上げた後、視線をわかりやすく左右に彷徨わせた。
「面白いっすね。お医者さんも人間ですもんね」
「……すいません」
気まずさを誤魔化すために早く終わらせようと、急いでペンを走らせた緋山はカルテを閉じた。
「余計な話を聞かせてしまってすみません。失礼しました」
「あれ?もう行っちゃうんすか?」
ベッドの中から聞こえる陽気な声に緋山は背を向けて次のベッドに向かう。だが、藤川は眼鏡の奥の目が面白そうにきらりとしている。
「すいませんね。あいつ、合コン楽しみにしてたみたいで」
そーなんすか?と食いついた声に自分が書いていたカルテの上に肘をついて前のめりになった。
「外資系だの、合コンだのうるさいんすよ」
「お医者さんとの合コンってよく聞くけど、女の先生もあるのか。そっかー。男はよっぽどじゃないと太刀打ちできなそー」
「でしょ?」
くしゃっと顔をゆがめた藤川の尻の下あたりに、体をひねった緋山の蹴りが入る。
「いーっ!!……てぇ!!」
「いいから!次!!」
「なんだよ……、もう」
蹴られた場所をさすりながら藤川もそのまま次のベッドへと歩いて行ってしまう。
あーあ、とベッドの中から呟きが聞こえた。ベッドサイドのプレートにはフルネームと病名、日付が入る。
「……いっちゃったよ。せっかくのチャンスが……」
天井を仰いで、周りのざわざわした空気だけを感じながらため息をつく。
胸の上と足の上には重し代わりのパックが乗せられていた。この手のことによく使われているのだろう。液体はこぼれても困らない水か何かなのか、ようは水枕のようなもので圧迫のかわりというわけだ。
朝も早くから目が覚めてしまい、身動きもろくにできないために退屈を持て余していた。