すべては誰かの掌の上で 2

並んで別のカルテを開いた藤川はまだ天井を見上げている先ほどのベッドの主、真田のほうを見た。

「真田さん。よさそうだな」
「ん……。でも、もうちょっと様子見ないといけないんでしょ」
「血管、細いんだってな」
「そ……」

藤川は何度も顔を上げて並んだベッドに目を向けるが、緋山はそれぞれ、傍に置かれた機械の表す数値をカルテに書き込んでいく。一通り回った後、日勤の先生方が来るまでの間に、少しでもお腹に何かを入れて。
また一日が始まる。

同じ時間、一足先に医局ではなく備品倉庫でぬるいカフェオレを腹に入れた白石がナースステーションに立っていた。

「ふう……」
「疲れた顔してますよ」

予定の点滴パックを並べて名前の書いたシールを貼り、もう一度指示された投薬と違っていないか確認する。
冴島の手際のいい動きを見ていた白石は両手で顔を叩いた。

「……ごめん」
「私に謝られても。私のほうが若いって実感するだけですけど」
「あなたのそういうところほんと、腹立つ」
「それはどうも」

そんなやり取りもいつものことだ。
とがった会話の割に顔は笑っている。戦友、とでもいうような関係は不必要に甘い言葉はない分、その裏に隠された気遣いが分かりづらい。

「おはよ」
「おはよう」

仮眠室に行っていた藍沢が顔を見せて、胸に入れたペンを早速引き抜いて並んだカルテに目を通していく。
いつもと変わらない様子に口角を引いた。

朝は医師も看護師も夜勤と日勤が入れ替わる時間がある。それぞれ、持ち場に立って申し送り事項を確認したあと、また看護師と医師のそれぞれが一日の予定を確認する。

昨日は緋山と組んでいた白石は藍沢と一緒だ。

「おはようございます。起きてらっしゃいますね。いかがですか?」

空腹のせいなのか、八つ当たりがきつくなってきた緋山と外来を替わった藤川が姿をけして、そのほとんどが『身動きするな』状態のベッドの端から回り始めた。

「おはようございます。めっちゃお腹すいてます」
「気持ち悪いとか頭痛はありますか」
「ないですよ」

一足先に朝の状態が書かれた緋山のメモをみながら、状態を確認して口を開く。

「真田さん。昨日お話しましたが、血管の詰まっていたところを広げました。しばらくはお薬を飲んで様子をみながら」
「詰まってたカスがまた詰まらないように、でしょ?わかってます。前にも同じ説明をうけました」
「……そっか。以前もされてるんでしたね」

血管は迷路のように体の中を駆け巡っていて、大きな血管を除けば、網目のような毛細血管は一人として同じではない。
真田の心臓は主要な血管が細く、バイパスをするにも難しいらしい。体力的にはまだ若いのでバイパス手術などが考えられるが、今のところはカテーテル治療となっている。

「様子見、もわかってますよ。今はとにかく、早くこの重たいパックがどかないかなーって思ってます」

笑って、受け答えもしっかりしている真田に白石は頷いた。

「えーと、昨日は稽古に倒れたということですけど、劇団の方だとか?」
「そうなんです。僕、劇団やってるんですよ。そんな大きな奴じゃないんですけど、そこそこ名前が売れれて。その稽古中だったんです。ちょっと気合い入っちゃってやってるうちに、背中が痛いな、胸が苦しいなって……」

指先をクリップに挟まれたままひらりと振った真田に、珍しく藍沢は眉間のしわを見せた。

昨日見た限りは痛い、苦しいといってもかなりだったはずだが、救急車に乗せられるまでは、平気だと普通に歩いてさえいたらしい。

小さく顎を引いた藍沢は次のベッドに向かい、カルテにメモを書き込んだ白石もじゃあ、もう少し我慢してくださいねといって離れていく。
重しが取れるまで、まだ時間がかかることは経験者である真田もわかっていたから、あとはひと眠りするしかないなとおとなしく目を閉じた。

これも前の入院で初めて知ったが、運ばれてあっという間に驚くくらいの人に囲まれるのはドラマと同じだが、実際はドラマのような展開はないということだ。
耳に聞こえてくるのはありふれた雑談のような会話がほとんどで、そのうち、どこかにまた運ばれて行き、麻酔をかけられてしまえば後頭部からずるっと引っ張られるような睡魔に襲われる。

正確に言えば睡魔とも違うはずだが、そうやって意識が無くなった会話の後のことはわからないまま、気づけはICUという手術後や重症の患者を逐一、見張っていられる部屋に放り込まれるという流れだ。

―― ここは先生たち若いなー……

以前、真田が運ばれた病院は市立病院で、大きな市だけに医者もそろっているといわれてはいたが、それも知ったのは後のことだ。ただ、真田を診てくれた医師たちがなんの知識もない一般人の真田から見ても、そこそこのベテランクラスがそろっていたことは確かである。

そこからすると、大学病院の付属となるとやはり、若い医者が多いのかなと思いを巡らせるだけ余裕があるのは二度目だからということだけでなく、真田自身によるところも大きい。

救命の医局に人がいることはほとんどない。代わりにナースステーションはいつもざわついているものだが、今日はなんだか様子が違った。

「……何?」

ぼそりと呟くように話す藍沢は、いつにない雰囲気に周りを見回す。いつにない、ということを何とか藍沢なりに表現するなら、なんだか悪い意味ではなく賑やかだ、という感じである。

「藍沢先生。あの昨日運ばれてきた真田さんですよ」
「なんかあった?」
「あ、そうじゃなくて。違うんですよ」

そういってICUのほうをちらりと見た看護師の視線の先から笑い声が聞こえてくる。

「ここはすごい美人や男前の役者が多いなー」
「やだぁ。私たち看護師ですよぅ」

まだそれほど動けるはずもないのに、看護師に話しかけているのは真田である。普段なら緊張でひりつく場所の空気が明らかに違う。

「何してるんです」
「あ、えーと、藍沢先生!でしたね。すいません、つい暇だから話しかけちゃって」
「元気なのはいいことですが、他の患者さんたちもいますので」

多くの人に触れて、会話する。それに慣れてくると、数少ない会話でも相手のタイプというか、性質の一片がわかるようになるものだ。

ほんの少しだけ不快さが表に出てしまうのはなかなかないことで、藍沢の眉間に立派な縦の一本が入る。

「藍沢先生は……、あれかな?ちょっと高倉健さんみたいな無口の役者みたいですよね」

藍沢の表情が気にならないのか、横になったままでもその顔はよく動いて、誰もが知っていそうな物まねをして見せる。誰もが、というのはこの場合、藍沢には全く当てはまらなくて、淡々と返すだけだ。

「……私は医者ですけど」
「わかってますよ。でもね、僕、芝居を作ってる方なのでつい、思っちゃうんですよ。面白いと思いません?この世の中、全部が劇場だったらって」
「……」

はあ、そうですか。
ふーん。おもしろいねぇ、君。

この場にいない、他の誰かだったらそんな返しができたかもしれない。

だが、ここにいるのは藍沢である。
黙ってしまったのは、さてどう返すべきか、どうすれば目の前の相手は黙ってくれるのか。
このわけのわからない話から離れられるのか。

「僕は今、患者っていう役どころなんですよ。それも若いのに心筋梗塞!っていうね」
「……じゃあ、私は」
「医者っていう役ですね。そうだな、普段は寡黙で、でも必要なことはしっかり話してくれる若手のホープ!みたいな?」

突然わけのわからない話を吹っ掛けられて、さらに役どころを勝手に割り当てられた。

投稿者 kogetsu

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です