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いつの間にか『真田式』と名前が付けられたらしい“役”といういい方は、さらに広まったらしい。
「名前つけたの、橘先生だろ」
「そ。あの人、看護師だけじゃなく最近……」
女だったら誰でも誘うらしい。
さすがに下を向いていても目の前を三井が横切ったことに気づいて、黙り込む。危うくとんでもない失言をやらかすところだったが、こんな時白石ならそもそも危ないところまでも行かないはずだ。
それもこれも、目の前の口の軽い男が悪い。
責任転嫁という早業をしてのけた緋山は溜まったカルテの山のはんぶんを藤川の山の上に積み上げる。
「なになになに、ちょいまてーーい。お前、これひどくね?」
「あんた今日フライトだから」
「え?なに。それ僻み?」
ちっ、と盛大に舌打ちをした緋山は書きかけのファイルを閉じて立ち上がった。
今でこそ、電子カルテがある分、彼らにとっては書き物が減ったような気がするが、一般の病棟と違って、救命の仕事のなかで書類仕事はなかなか減らない仕事の一つだ。
一般病棟に来る患者のほとんどは、診察券があって、すでに患者情報も記入済みの場合がほとんどだ。時には紹介状を持ってくる患者もいるが、それも受付で医療事務のスタッフが基本情報を入力して回ってくる。
だが、救命の場合、そんなものは一切ない。
だから、基本情報から通院歴を探し、あればそこから、なければカルテ起こしから始まり投薬指示書や手術の際に使用した薬、器具までそれぞれ書類があって、時にはサインだけで済むものもあれば術式や内容まで書き起こさなければならない。
当然ながらシニアと一緒に手術を行えばそれらを書き起こすのはフェローたちの仕事だ。
実際には手分けすることがほとんどだが、これらの書類仕事も治療の次に待ったなしである。各病棟へ移る患者も当然いるわけでその時に書類ができていないというわけにはいかないからだ。
「……メスよりペンだこできるっつーの」
そのほとんどは電子化されて、自分専用のノートPCがありはするが、出力された後の紙を見て記入していくものは山のようにある。
「どしたの」
色白でつるつるの頬。
口紅を塗っているのだろうが、形のいい桜色の唇。
さらさらの長い髪。
「……なんでもないわ」
見飽きた、見たくない。
そんな言葉を今までもぶつけてきたが、もう間もなく認定を受けるはずの同僚の顔が妙に憎らしく思えてしまう時がある。
さすがにこれは八つ当たりもいいところだとわかっているから吐き捨てるように言って、離れてくれるのを待っていると、優等生の同僚はありありとその顔に心配ですと書いて近づいてきた。
「なに。なんでもないわよ」
「あ、うん。ほら、この前話してた真田さん」
さすがにこの天然な女も空気を読むようになったのか、近づいてきたものの話をほかに振った白石に渋々ながら緋山は廊下を歩いていた足を止めた。
「どうかした?」
「違う。ほら、病室に移ったでしょ?お見舞いが来てるみたいで……」
そういえば今日はだいぶうるさいな、と今更気づいた先からどっと笑い声が聞こえてくる。
「何、あれ」
「元気なのはいいんだけど、人数も多いみたいで、ね」
「あたし、ちょっと言ってくる。もう、周りの迷惑だっつーの」
病室とはいえ、一般病棟ではない。
ほかの患者よりはいいのだろうが、まだ真田もやっと起き上がっていいと言われたばかりではしゃいでいいはずもない。面会時間もここはほかの病棟以上に短いにしても、と病室に足早に近づく。
「ちょっと!真田さん。何してるんですか!」
開きっぱなしの病室の入り口から緋山は臨戦態勢で声を上げた。
くるっと振り返った見舞客の多さに一瞬、たじろぎそうになるが、首にかけた聴診器を押さえて奥へと踏み込む。
「皆さん!ここは病院です。ほかにも入院してらっしゃる方がいるんです。静かにしてもらえないなら出て行ってもらいますよ」
十人はいるだろうか。一斉に緋山の顔を見た見舞客たちをぐるりと見回せば、その奥から能天気な明るい声が聞こえてきた。
「緋山先生。すいません~」
「真田さん!あんまりひどいと面会禁止にしますよ」
―― 嫌味な女医だと思ってるんだろうな
頭の片隅でちらりとよぎったが、口を出てしまうと止まらなくなる。やってしまったと思ったときには遅い。
どうせそんな目で見られるのだろうと思っていた緋山は、その場にいた面々が一斉に頭を下げたのを見て、ぎょっとしてしまった。
「すみませんでした!担当の先生ですか?」
「えっ?!や、あの」
「ほんとすいません。思ったより元気そうだったんでほっとしちゃって」
次から次へと一斉に侘びと感謝とが続いて、あたふたと両手を押しとどめるように上げた緋山はじりっと後ずさる。
「わかってもらえばいいですから……。わかりましたから」
まるでゾンビ映画のように頭を何度も下げながらじりじりと緋山に迫ってくる見舞客たちに、正直、焦りを感じ始めていたところに弾けるような笑いが起きた。
「あっはっはっは。ほら、お前らもういいから帰れよ」
「……え?」
その声を合図にしたように、緋山ににじり寄っていた彼らはふぁっと息を吸い込んでその姿勢をもとに戻す。
なーんだ、というつぶやきや、面白かったのに、という呟きさえ聞こえてくるが、それに反応する余地もないほど、彼らはあっというかに手荷物をまとめて、ぞろぞろと病室を出ていく。
緋山の傍を通り際には、明るくお世話様でしたー、という声をかけて病室の中はいっそ広くなったかと思うくらいに静かになる。
そこに、一人だけ女性が枕元に残っていた。
「すみませんでした。うるさくしてしまって」
丁寧に頭を下げた女性に、黙って会釈をした緋山は、思いついた疑問をそのまま口に出す。
「彼女さん、ですか?」
確か、真田は独身だといっていた。手術の同意は本人がしていたし、身内もいないのだといっていたが、そういえば劇団のほかに一人緊急の連絡先に名前を挙げていた気がする。
「はい。杉本と申します。この度は大変お世話になりました」
若い。
どう見ても緋山よりも若く見えたがその物言いと物腰はきちんとしていて、緋山のほうが挙動不審になってしまう。
「あ、はい。いや、えと」
しどろもどろになった緋山に気をつかったのか、真田が引きとって杉本いう女性に説明を始める。
「こちらが緋山先生。ほかにも先生たちがいて、藍沢先生、白石先生とかすごく皆さん親身にしてくれてるから」
心配しなくてもいいんだ、という真田に笑みを見せて頷く。
ああ、すごく仲がいいんだな、と思える二人の様子にほっと緋山も頷いた。
静かにしているなら、面会時間いっぱいまでいてくれて構わない。そういったのだが、何かあれば連絡する、という真田に送り出されて、すぐ彼女が病室を出るというので一緒に緋山も病室でた。
廊下に出て、数歩足を動かしたところで、もう一度緋山にむかって頭を下げる。
「先生。彼は……、真田さんは結構、我慢をすることが多いです。多分、今回も痛い、苦しいと思ったのは、もう少し前からだったと思います」
「はい」
それは検査の時に、もうわかっていた。痛みを堪えたり、すぐ直るだろう、と思いこんでしまう患者が多いのはよくあることなので、特に注意する程度だったが。
「私は、彼と同じ劇団にいて、今は彼の代わりに全体をみているのでなかなか面会時間に来るのはできないので……」
その先を何というべきか迷っている。
心配と不安。同時に、傍にいればますます不安を見せてしまうことへの葛藤。
先ほどの挨拶からすると、こんな歯切れの悪い話し方をする人ではないのだろう。
それが分かった次の瞬間には、彼女の細い肩に手をおいていた。
「大丈夫です。大丈夫だから、次に来るときも、笑ってあげてください」
いつになっても、この性分は治らないのかもしれないと思いながらも、それも悪くないのだと思う。患者に近づきすぎない、と思ってはいるのにこうしてついつい一歩踏み出してしまう。
「……はい。よろしく、……よろしくお願いします」
泣き笑いのような笑顔を見せて深々ともう一度頭を下げて帰っていく後ろ姿はなんだか切ないくらい温かくて、無事に退院までこぎつけることを願ってしまう。その気持ちを断ち切るように、無線が鳴った。