出勤前の冴島がせっせと手を動かしていて、寝起きにとにかくシャワーを浴びた藤川は頭を拭きながら足を止めた。
「はるか、何してんの?」
「おにぎり作ってるの」
「なんで?」
昼は知っての通り、食堂でとるのがほとんどだ。だから、おにぎりやお弁当の類は持って行ったことがない。
それをよくわかっているから藤川も思わず聞いてしまったのだ。
「いいから。早く支度しちゃって」
「なんだよ」
肩を竦めて藤川が着替えに部屋に向かう。支度を済ませてくるころには冴島も支度を終えていたから、車に乗り込んでから話の続きになる。
「おにぎりって、やっぱりいいなと思って」
「何?急に」
「おにぎりって、こう、手で握るわけじゃない。そこで伝わるものがあると思うのよ。だから、今のうちにできることしておきたいなって」
ハンドルを握る藤川にはまったく話が読めなくて首をひねっていると、楽しそうに冴島が笑った。
「いいのよ。わかんなくて」
そういって笑った冴島に藤川は少しだけ困った顔をしながらそれでも笑った。
駐車場に車を止めていつも通りの一日を始めるためにお互いに着替えに向かう。着替えてナースステーションに向かった冴島は、先に着てすでに点滴パックのチェックをしていた雪村の隣に立つ。
「おはよう」
「おはようございます」
「ねえ、雪村さん」
小さな巾着に入れたおにぎりを差し出す。
雪村は週末を迎えて、時々ひどく顔色が悪くなる時がある。その理由を聞くようなことはしたことがない。きっとその痛みに触れなくても、彼女ならそれを含めて成長していくからだ。
「ちょっと作ってみたの。気が向いたら食べて」
「え……」
「中身は梅」
それだけを言って雪村の隣を離れた冴島は、医局のドアをノックする。
そもそもこの部屋にデスクがある顔ぶれがここにいたことなどほとんどない。だが、不定期でも必ずここには日に一度腰を下ろすことがわかっている。その机にもう一つの巾着を置いた。
その隣に食べかけのコンビニのおにぎりが置いてあるが、とっくに干からびていて、固くなっている。それを袋に入れてごみ箱に入れた後、冴島は医局を出てナースステーションに戻った。
「……私にはないんだ」
その一言に振り返った冴島は、にこりと笑った。
「白石先生にはいらないでしょう?それに、もらうほうじゃなくて白石先生も作ったらどうです?」
「作るって……誰に」
「その質問、答えていいんですか?」
お互いに顔を合わせてはいない。
ただ背中合わせにそんな話をしていただけだが、はっきりと白石の動揺は伝わった。
笑う気配に、なんと答えるべきか迷った後、本当にずいぶん迷った後小さく返事が返ってくる。
「……聞かないで」
「ですよね。白石先生ってほんと、ヘタレっていうか……。フェローたちにあれこれ言えませんよ?特に名取先生なんか」
見なくてもなぜわかるのかと肩を竦めた白石は、ICUの中で緋山と一緒に患者を診ている名取の姿に目を向ける。
緋山の幸せが優先だという名取は、どうやらその気持ちも隠す気がないらしい。あまりに堂々としているから突っ込みようがないくらいで、せいぜい、藤川が時々、名取に何か話しかけているくらいだ。
「別に、そこはなんていうか、私は……」
「なんていうかじゃない!」
急に振り返った冴島は、白石のすぐそばでばしん、とテーブルをたたく。
「あなたは医者だけど、いつまでも若いわけじゃないの。早くても2年後を考えたら今のうちから胃袋を掴むって大事よ」
「2年後って……。あの妙にリアルなんだけど」
「おいしいものとか、記憶に残るものってやっぱり一番でしょ」
「それで藤川先生も……」
「そこ。違うから」
小さく呟いていた白石のつぶやきはあながち無視されていたわけでもなく、的確に拾われていたらしい。
ぴしゃりと言い切られれば、なるべく早く謝るに限る。
「……すいません」
「だから、今のうちにおにぎりの一つや二つ、作ったらいいのに」
「おにぎり……」
そういって、思い浮かべるとおにぎりのようなものを食べていた記憶がまったくない。
食べるのかな、と手を止めていると、ぽん、と肩を叩かれた。
「そういえばあの時食べたなって思い出してくれるのは、いいわよ」
誰のことを指しているのか、下手につついて自分が痛い目を見るよりも、まだ曖昧なままのほうがいい。
冴島が離れて行って、現実へと戻りかけたところですぐそばにその人が立った。
「わっ」
「なんだ」
スクラブに着替えているのに、微かに香水なのか、整髪料なのかその人の香りがする。
「いや、別に。何も。まったく」
「……そうか」
「あの!」
その場の勢いだったのか、冴島の後押しのせいなのか。
途切れそうになった会話に思わず声を上げる。
「あの、おにぎりだったら何が好き?」
「……明太子とか、昆布、梅干し」
「あ……そう。ふーん」
なんだ急に、という顔をしながらも律義に答えるところもらしい、といえばらしくて、胸の中で必死にメモを取りながら白石は相槌を繰り返す。
―― え、明太子?それ、普通に混ぜるの?マヨネーズとか?昆布って……佃煮、かな
胸の内ではあわただしく、自分が作る姿を想像していた白石は、そのまま切り返されてさらに慌てた。
「お前は?」
「えっ?!あたし?えっ、あ、えーとね……、高菜?」
「……それ、普通コンビニにあんまりないだろ」
―― えっ?!おにぎりってコンビニ限定なの?!
その人の食べるものが、日ごろのストイックさから、なかなか想像できなかった白石が、眉をひそめた瞬間、まるで頭の中がそのまま声になって聞こえてくる。
「普通、コンビニで買うのが一番多いだろ?」
「そうかな。ほら、誰かが作ったやつとか、あるじゃん。色々」
白石にとっては全力で自然を装っているのだが、ナースステーションの一角が、周囲の全員から固唾をのんで見守られてるとかこれっぽっちも気づいていない。
だが、それでもさすがに白石よりは敏い藍沢が、特にキラキラした視線を向けていた横峯に気づいた。周りを見れば一斉に視線を逸らすのを見て、壁に向かっている白石と向かい合うような向きに姿勢を変える。
じろりと見回す藍沢に、慌てて周りが離れていく。
「……四つ」
「えっ?」
藍沢のほうを見ないように、見ないようにしていた白石はいつの間にか向きを変えていたことに気づいて顔を上げた。
「俺は一つがでかい方がいい。ラップで来るんであれば途中でも置いておけるし。お前と緋山と一つずつ。中身は梅でいい」
「……は?」
―― 四つ。私と緋山先生で一つずつってことは残り二つが……
いうだけ言ってすたすたと離れて行ったその背中に目を丸くした白石は何度も目を瞬かせた。
―― これは……作ってきていいってこと、だよ、ね……
藍沢に睨まれて隅の方に隠れていた横峯は、隣にわけもなく引きずり込まれた灰谷の肩をバシバシと叩いた。
「や~、おにぎりか。いいよね。いいじゃん。いいなぁ」
「うん。僕も、作ってこようかな」
「えっ?!灰谷先生、作れるの?」
「だって自炊するでしょ?」
当たり前だよ、と眼鏡を押し上げた顔を見て、横峯のほうが慌ててしまう。女子はおしゃれに命を懸けても、なかなか料理には時間をかけないというのが持論である。
「じゃあ、灰谷先生が作ってきてよ」
「……いいよ。なにがいい?」
「……おいしいやつ」
「わかった」
少しだけはにかんだ横峯を素直に可愛いと思った灰谷は、くるっと振り返った。
スマホを弄りながら、自分には関係がないという顔をしている名取を見る。
「名取先生は塩むすびにするね」
「……は?」
急に話を振られた名取に向かって横峯がダッシュでその腕をつかむ。
「いいじゃん!名取先生だけ具なしね」
「なんでだよ。普通シャケとかおかかだろ」
「嘘。梅じゃないの?」
そこから再び話に火が付きかけた瞬間、地の底のような一言が飛んでくる。
「……お前ら。暇なのか?」
藍沢の一言でその場を離れた三人は、急ぎ足で離れながらこらえきれずに笑い出した。