夜明けのIndigo

「ん~っ!!」

思い切り伸びをしながらカバーがかかったヘリへ続く道をゆったりと歩きながら両手を頭の上に引っ張るようにして伸ばす。

ポケットに入れた紙がかさっとスクラブに擦れた音がする。
真っ青と朝焼けの混ざった空を見上げた。

ヘリポートに向かって、クロックスをぱたぱた言わせながらのんびりと歩く。

「やっぱ、この時間が一番きれいだよな」

その先にいる同じスクラブを着た背の高い男に声をかける。顔だけをこちらに向けた藍沢ではなく、明るくなってきた空に目を細めた。
ブラックの缶コーヒーが二本。一本を差し出すと、すでに開けていたらしい缶を片手が持ち上げた。

そうか、と一本をあいたポケットに入れて、藍沢の隣に立つ。椅子があるわけじゃない。柵に腰を下ろして、お互いに顔を見ることもなく空を見上げたままだ。

「お前、年明けに行くんだったよな」
「ああ」
「そっか」

プルタブを開ける音に藍沢が動く。藤川の手元を見て藍沢はゆっくりと手にしていた缶を差し出す。
それをみて、ふっと笑った藤川はカツン、と自分の缶を当てた。

「トロントかぁ。どんなとこなんだろうなぁ。俺、行ったことねぇや」

寒いのか。
暑いのか。
どんな場所なのか。

だがきっと、藍沢は変わらないだろう。

「年が明けたら、一度、手続きのために、一度行ってくる。住む場所もその時に決めようと思ってる」
「そっか。そうかぁ。いいところが見つかるといいな」

ぽつり、ぽつりと交わす会話はいつもなら藤川が次から次へとまくし立てるように話すのに、今日は言葉が少ない。

「あのさ」

迷っていたのか、ためらいがあったのか。
気持ちを固めたのか。

ポケットに手を入れて差し出した藤川の手に握られた紙を受け取って、藍沢は足元に缶コーヒーを置いてその紙を開いた。

「頼んでいいか?」

薄い、ペラペラの用紙にすでに書かれている名前を見る。

「親とかさ、橘先生とか、色々考えたんだよ。でもさ、やっぱお前らに書いてほしいなって、はるかと話したんだ」

承認の欄にはすでに白石の名前が書いてあった。

「いいのか?俺で」
「ああ。お前らが、いいんだ」

一つだけあいている署名欄を見て、頷いた藍沢は手の中の婚姻届けを折りたたんでポケットにしまった。

それを見た藤川はほっと笑顔を向けてからコーヒーを飲む。

「今披露宴しないかってはるかと話しててさ。もしできるんだったら、俺、あれ、人前式ってやつ?あれにしたくてさ」
「神前?」
「人前式。籍は先に入れるけど、結婚証明書にみんなの前でサインして皆に認めてもらおうっていうやつ」

ああ、と頷いた藍沢は軽く手にしていた缶を振って、いくらか残っていたコーヒーを飲み干す。

藤川らしい選択だ。今の冴島なら喜ぶだろう。

柵から立ち上がった藍沢は、体を起こして歩き出す。その後ろ姿を見送った藤川はもう一度空を見上げる。さっきまでの混ざりあった二色の空はもうなくて、青の明るさが寝不足の目に染みた。

建物の中に戻った藍沢は、医局のデスクに戻って引き出しから判子を出して、手を止める。
他に人がいなかったから広げていたが、なんだか違う気がして、開いた判子を閉じた。

丁寧に折りたたんで、手近にあった空の封筒に入れる。

その医局の外では冴島と白石が並んで立っていた。

「よかったの?」
「何がですか?」
「んー……。色々……」

歯切れの悪い白石に冴島はぱしっと手にしていたカルテを置いた。相変わらず、白黒つかないと気が済まないのかきっぱりしたがる癖は変わらないらしい。

「何か気に入らないんですか?証人にサインしたこと」
「そうじゃないけど……。やっぱりああいうのはご両親とかのほうがよかったんじゃないかなぁ」
「何をいまさら……」

物言いは相変わらずだが、その顔には笑みが浮かんでいる。これも十年で変わったところだろう。そのまま白石の顔を見て、点滴パックに手を伸ばす。

「いいですか?私たちが今一緒にいるのは白石先生や、藍沢先生、緋山先生、それに他のみんなのおかげなんです。だから、白石先生と藍沢先生にサインしてもらうのは藤川先生と一緒に即決したの」
「ん……」

だからこそ、藤川に頼まれた白石は、緋山が当直の日を狙って、家に帰ってから丁寧にサインして持ってきた。
それを渡した後、人前式の話を聞いて、自分でよかったのかと思ってしまったのだ。

「人前式の話もね。正直、私は結婚式なんてしなくてもいいと思ってる。とくに披露宴なんてね」
「そうなの?」

冴島が本当に呼びたいのはここで働いている皆だ。その全員を、式に呼ぶことなどできるはずもない。だからこそ、来てほしい人のいない式や披露宴に意味がないと思っている。
それぐらいなら、一日ゆっくり休んでもらうほうがいい。

その顔を見て、だからこそ、藤川がどうしても披露宴をと言っているのだろうと、白石には思えてしまう。
曖昧に笑った白石は何度か頷いては見たが、やはり、思うことは黙っていられずに口に出してみる。

「でも、……できるならやっぱり考えてみてもいいんじゃない?」
「そうね。……考えておくわ」

ふ、っと笑って、肩を竦めた冴島は再びカルテのファイルを手にすると、離れて行った。

白石はそのまま医局のドアを押して誰もいないはずの医局に入る。

「……わっ。藍沢先生いたの」
「白石」
「今日、休みじゃないの?とっくに帰ったと思った」

誰もいないと思っていたために、驚いた白石は、眉をひそめた後、大きくデスクを回って自分の席に座る。む、と黙って封筒を鞄にしまった藍沢は、引き出しを閉めて立ち上がった。

「……これから帰るところだ」
「そう」

自分の席に座って、白石はパソコンの電源を入れる。スタッフリーダーとしてシフトも決めなければならないし、書類仕事は相変わらず山積みのままだ。

「そういえば……」

帰りかけた藍沢がドアの前まで行ってから足を止める。
話しかけようか迷った挙句、結局足を止めた。

「白石」
「ん?」
「藤川に頼まれたんだが……」
「ああ。婚姻届でしょ?」

私もよ、と微笑んだ白石を見て、藍沢は鞄に片手を入れる。

証人欄に並ぶ。

「あの」
「なんとなくね。ここでいつもの三文判で書くのもなぁって思って。緋山先生がいない日を狙って家で書いてきたの」
「……そうだな」

鞄から出しかけた封筒を、そのまま押し込んだ藍沢は、何かを言いかけて何度も躊躇う。初めは顔を上げずに頷いていた白石がふと、顔を上げた。

「どうかした?」
「いや……」
「じゃあ、書き間違いとかしないように。気を付けてね」
「……ああ」

何とも言えない顔をした藍沢は結局それ以上何も言わないまま医局を出て行った。

* *

妙なプレッシャーをかけられて、一応緊張しながら書き終えてきた藍沢は、タイミングをなかなか見つけられずに、ようやく藤川を捕まえられたのはだいぶ日にちがたってからだった。

当直明けに医局にいた藍沢は、書類仕事の合間に申請書やら手続きやらと追われていた。そこに、目頭を押さえた藤川が医局に姿を見せたのをみて、顔を上げた。

「いやー……、疲れるなぁ。やっぱ、もう若くないってか」
「藤川」

デスクの引き出しから封筒を取り出した藍沢が差し出すと、首を傾げた藤川が手を伸ばす。

「んー?」
「遅くなって悪かったな」
「ああ!書いてきてくれたのか」

封筒の中をのぞいた藤川は、疲れてしょぼしょぼになっていた顔に笑みを浮かべた。

ようやくそろった署名に嬉しそうに眺めた藤川は、それを冴島に見せる時のことを思い浮かべる。ただそれだけでも幸せな気分が押し寄せた。

「ありがとうな。これでいつでも出せるよ」
「いや……」

藍沢がよこした封筒にそのまま畳んで戻す藤川に、藍沢もほっと息をついて手元の書類に視線を戻す。
ふいに藤川が口を開いた。

「なあ。藍沢」
「なんだ」
「お前がさ。プロポーズするとしたらなんていう?」
「何を急に……」

藤川にとっては今更参考もなにもないだろうに、そんな問いかけを聞いて呆れた藍沢はしばらく黙りこんだ。

「なんだよ。いいじゃん。お前だったらなんていうのかなって」

例えば、白石に?

その言葉はさすがの藤川も飲み込んで、黙って待っていたが応える気配がないことにも拗ねるわけでもなく笑った。

「ま、言わないか。やっぱり……」
「……一緒に生きていきたい」
「え?」

一瞬、聞き逃した藤川の問いかけに藍沢は視線を逸らして繰り返した。

「一緒に生きていきたい、だ。たとえば、どこにいても」

これからレジデントにでて、いつ日本に戻るかもわからない藍沢だからなのか。
その言葉にこたえる人はいるのかと。

問いかけることはせずに藤川は静かに笑った。

「いいな。そういうの」
「ああ。……お前たちを見てると、そう思う」

そうかぁ?といって笑う藤川をみて、藍沢も珍しくふっと笑った。

―――end

投稿者 kogetsu

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