脳外に藍沢が異動して、四、五年もすればコンサルを頼んでも藍沢が来るとは限らない。
もちろん、タイミングが合えば藍沢が来ることもあるが、少しずつ藍沢よりも若手のドクターが来ることが増えていく。
時には、一緒に飲みに行くこともある。
時には、一緒に食事に行くこともある。
頻度は下がっても途切れず、繋がっているし、何かあればメールだってする。
それでも、一緒に日々を戦っていた頃とは大きく違う。
その日は、前日からの雨が降り続いていた。
夜勤明けの白石は、結局朝に帰ることができず、昼前に空腹を抱えて家に帰るところでばったりと藍沢と顔を合わせた。
「どうした」
「夜勤明け。そっちは?」
脳外の若手の中でも一、二を争うようになった藍沢が、昼前に私服に着替えて帰るのは珍しい。
病院から駅までの無料バスに乗ろうとしていたことに気づいた白石は車のカギをちらりと見せた。
「送る?」
「あー……」
いや、いい。
そう言いかけた藍沢は、足を止めた。
「頼んでいいか」
「もちろん」
車の場所はわかっているから、正面に回りかけた藍沢は踵を返して白石と並んだ。歩き出してすぐ、白石の腹が鳴る。
「……突っ込まなくていいから」
「相変わらずだな。朝のうちに帰ればよかっただろう」
「帰るはずだったの!三井先生が来るまでと思ってたら……、ちょっと遅くなっちゃっただけ」
薄っすらと顔を赤くした白石をみて、小さく笑う。
そして、白石の車にたどり着いてすぐ、白石の車に乗り込んだ。
「家に送ればいい?」
「いや……。時間があるなら飯に行くか」
「そうする?」
エンジンをかけて走り出した車は、馴染みの定食屋の前に止まった。
「結局いつもここよね」
「そうだな」
食券を買って、テーブルに座ると水が運ばれてきて、待っていれば食券と引き換えに定食が運ばれてくる。白石は魚の塩焼き定食、藍沢はカツ煮の定食だ。
「どうだ。忙しいか」
「そうね。派遣されてきた先生たちはもう来月には帰っていくし、フェローは来年にならないと入らないみたい」
「大変だな。人手は足りないだろう」
白石の箸を持っていた手が一瞬止まる。
そしてもう一度、動き出す。
躊躇うことなく、箸を動かしながら藍沢はそれを視界の端で見ていた。
「大丈夫」
「……そうか」
「うん。橘先生も三井先生も藤川先生もいるしね」
たったそれだけのことだが、思うところを口にする藍沢でもない。
今度は白石のほうが問いかける番だ。
「そっちは?」
「まだまだだ」
「そればっかり」
その腕も、判断力も、西条に一目も二目も置かれていると聞いているが、藍沢と話すといつもまだまだだという。
ただ、今日は妙に穏やかで不愛想な藍沢にしては僅かに笑みさえ浮かべていた。
食事を終えて、小雨の中、走って車に戻りながら白石は藍沢を家まで送っていくつもりでいた。
「白石、すまないが送ってくれるか」
「うん。家でいいんでしょ?」
「いや……、青雲の里まで行けるか」
「おばあちゃん、何かあった?」
絹江の住む老人ホームの名前を聞いて、白石の顔が曇る。
車に乗った藍沢はシートベルトをしめてから、ただ首を振った。
年齢や、状況を考えれば、体調が悪くなっていてもおかしくない。だが、それなら救急車を呼んでいるはずだ。
そう思いながらエンジンをかけた白石は、安全運転に努めながらも急いで向かった。ホームの前で藍沢が車を降りると、片手をあげて中へを入っていく。
「私も」
「ありがとう。早く帰って休め」
窓を開けて私も行こうかと、いうよりも先にやんわりと拒絶された白石は、雨を見上げて迷ったが、最後に白石の肩に触れた手は温かかった。
藍沢の姿が自動ドアの向こうに消えたのを見てから、ひとまず、言うことを聞くことにした。
その日の夜。
翌日は休みだったから、たまっていた洗濯やら片づけやらを済ませて、挙句、夕方になって白石は転寝をしてしまった。そうなると、早く休めばよいもののなかなか眠くもならず、テレビを眺めながら缶ビールを手にする。
「はぁ、私も貧乏性っていうか……。こんな時くらい早く寝ればいいのに」
そんな独りごとを呟いていたときに、チャイムが鳴った。
白石の家のインターホンが鳴るのは、宅配や郵便などで、来客で鳴ることなどほとんどない。
時間からして、配達ではないと思いながら、壁のインターフォンに手を伸ばした。そして、画面に映った人影を見て驚いて受話器を上げる。
「藍沢先生?!」
「……遅い時間に悪い」
「どうし……、ちょっと待って」
開錠のボタンを押して玄関に向かいかけた白石は、我に返って部屋の中を見回した。
幸いにも昼間片づけていたから人を招き入れて困るようなことはない。
もう一度チャイムが鳴って、弾かれたようにドアを開ける。
「どうしたの」
モニターの中は、夜だということと、マンションロビーの色味のついた灯りのせいで気づきもしなかった。
黒いスーツを着た藍沢の少し毛先の濡れた髪を見上げた。わずかに酒の匂いがする。
「少しいいか」
「どうしたの、恰好……」
「ああ」
いいか、と身振りで身の回りを払う仕草に察した白石は、頷いて部屋の中へ駆け戻った。
台所から軽く、一掴み塩を握ると玄関に戻る。まるで何かを詫びるように藍沢は頭を下げた。
ただ、白石がお清めの塩がかけやすいようにというだけのはずが、その様子にぼんやりと考えていたことがはっきりと形をとる。
部屋の前で塩を払うと、白石は藍沢を招き入れた。
「……あの」
「水曜だ」
ソファに腰を下ろした藍沢にタオルをとりに離れかけた白石が足を止める。
何を言いかけたのか、口に出す前に悟られてしまう。
「……ホームに入ったときと同じように、全部自分で用意してた」
途中までいいかけて、黙り込んだ白石は今度こそタオルをとりに洗面所に向かう。
今何を言っても、本当のことはわからない。
頼りにされていなかったのかとか、思うところは色々あるだろう。
ソファの藍沢の隣にそっとタオルを置くと、置きっぱなしにしていた缶ビールに眉をしかめた。
ビールというわけにもいかないだろう、と冷蔵庫からミネラルウォーターを持ってくる。
「言ってくれればよかったのに」
昼も、そして水曜日も、それから今日までもずっと、藍沢は普通に働いていた。
今は科が違うといっても勤務していればさすがにわかる。首を振った藍沢は白石が置いたタオルに手を伸ばした。
頭からタオルをかぶって、片手で濡れた髪をぬぐっていた手が止まる。
「……悪い」
もう一度繰り返した藍沢は背もたれに頭をのせて、タオル越しに額を押さえる。
「全部……、藍沢先生のためだったのね。仕事で忙しい藍沢先生のため。翔北に初めて来たときもそうだった。小さい藍沢先生のためにお菓子買ってた」
床の上に直に座った白石の言葉に、止まっていた手がピクリと動いた。
「藍沢先生が買ってあげた帽子。すごく嬉しそうだった。私たちが挨拶に行ったとき、藍沢先生が買ってくれた帽子だって教えてくれた」
「……もう、色が褪せてた。いくらでも、新しいのを買ったのにこれがいいって、最後まで手元に置いてたみたいで」
「……そう」
その藍沢の膝の上に、ペットボトルを乗せる。支える手に藍沢の伸ばした手が触れた。
ほんの偶然で、だからこそ、あえて手を離すこともせず、そのまま添えたまま。
「いいんだ。今日は一日で全部終わらせるために休みをもらった」
ホームでも藍沢の仕事は理解があったから、火葬の手配までしてくれたらしい。納骨まで一日で済ませられるように手配をしてもらったらしく、すべてを済ませてきたという。
「じゃあ、藍沢先生。今夜は一緒に話しませんか」
すっかりタオルで隠れていた顔が、ほんの少し動いて見えた。
「ホームの、皆さんとはたくさんお話したでしょうから、その分も藍沢先生」
額に乗せていた手がそのまま後ろに滑って、タオルを首の後ろに落とした。
黙ったまま、白石を見る目はいつになく、途方に暮れたようなそんな目をしている。その顔を見た白石は、ペットボトルをテーブルにおいて立ち上がった。
冷蔵庫から新しいビールを持ってきて、テーブルの上に置く。
「飲もう」
黙ってうなずいた藍沢は缶に手を伸ばした。
藍沢も白石も互いの家は知っている。藍沢のマンションは部屋へ行ったことこそないが、場所は何度も送って行ったことがある。
白石のほうは、酔っぱらって藍沢に担がれてきたことが何度かあっただろうか。
玄関までだったこともあれば、酔いすぎて部屋まで運ばれたこともある。
だから藍沢は白石の部屋なら知っていた。
そんな雨の日の、夜を思いだす。
律は、どれくらいぶりに藍沢に会ったのだろうか。
別れてから一度も会っていなかったのだろうか。
白石はそんなことを考えながら、退院していった律のカルテを看護師に渡して立ち上がった。
「白石先生?藍沢先生見ました?」
「え?ううん」
「あれぇ……、さっきまでそこにいたと思ったんだけど」
それを聞いてふと、白石は最近ではあまり足を向けなくなった薬品倉庫に歩いていく。
灰谷が隠れていたり、名取が一人拗ねていたり、横峯が一人練習をしたりと、フェローが一息つくには一番いい場所だ。
昔、白石も何度も足を運んでいた。
棚の陰からひょい、と頭を突っ込んで奥を覗き込む。
普段は使われていないストレッチャーの上に長々と伸びた足がみえる。
そうっと近づいて、床の上に膝を抱えて座り込んだ。
目を閉じた横顔を眺めていると、ふいに思い出した日の藍沢とダブって見えてくる。
「……っ」
ぱちっと急に開いた目が、そこにいる白石を見てびくっと起き上がった。
「あ、ごめん。むこうで藍沢先生探してたから」
「声をかければいいだろう。……驚かせるな」
「勝手に驚いたんじゃない。もう、こんなとこいるからでしょ」
片手をついて立ち上がった白石が、その場から離れようと背を向けた時、少しだけ焦った声が足を止めさせる。
「つい口から出たんだ」
え?何が?
腰を下ろした姿で、膝の上に両腕を投げ出していると、いくら背の高い藍沢でも立っている白石からは頭の上を見下ろす格好になる。すぐそばにいるから余計にその表情が見えないから、余計に声が焦っているように聞こえた。
「何よ」
「だから、あの時、俺たちは医者で、だから」
何も考えずについ口から出たんだ。
「気にしてたの」
きっとこんな風に言えば、機嫌を悪くするかもしれないけれど、拗ねたような、それでも一生懸命話そうとするところが、可愛いと思ってしまう。
「気にしてるんじゃない。気にされてるのが嫌だ」
「珍しい。子供みたいな、……って、え?」
え?藍沢先生が気にしてるんじゃなくて?
私?私が気にしてるのが嫌ってこと?
さらりとそのまま流してしまいそうになった一言に戸惑って、ききかえしてしまう。
つい、うっかりと。
「……っ」
見上げてきた目を目がぶつかって、思わず息を飲む。
「……余計なことを言った」
ふい、っと目をそらした藍沢は小さく呟いて立ち上がると、白石にはぶつからないように身をかわしながら大股で歩いて行った。
その場に立ち尽くした白石は、藍沢を引き留めるべきか、それでも何を聞いたらいいのか、迷っているうちに、一人置いて行かれた格好になる。
「あれ?白石先生どうしたんですか?」
くるくるといつもの仕草で髪の毛を指にからめながら横峯が姿を見せた。
「あ。ううん。何でもない。何でもないの」
「ふうん?顔、赤いですよ?」
慌てて両手を振りながら何でもない、といったのに、無邪気な笑顔にあっさりと指摘されてしまう。
両頬に手を当てた白石は、自分でも自分がよくわからなくて、ただ疑問を繰り返す。
「え?そう?え?ほんと?」
「ええ。なんか、最近の白石先生、前より可愛いかも」
「えっ?可愛い?」
「そうですよー。もっと髪とかも可愛くすればいいのに」
先輩であり、上司でもあるが、こんな時は女子同士の会話だ。
横峯は手をのばして白石の乱れた前髪を少しだけ直す。
「白石先生、おでこ出してもかわいいかも?あ、もっと伸ばしてあたしみたいに巻くのどうです?」
「えっ。や、昔長かったけど、今はもう無理。しかも、横峯さんみたいに可愛く編んだりとか無理だし」
「え~。意外。白石先生不器用?」
ようやく現実に引き戻されたというべきか、リアルに連れ戻してくれた横峯には感謝したいくらいだが、二人で並んで戻る間に、女子としては、と横峯に散々熱く語られることになった。