梅雨の天気を心配する。
それはもっぱら、仕事が中心だった。
停電しないか。
病院にとって停電は大敵の一つだ。
すぐに復旧するならいいが、そうじゃない時もある。
ネットで新しい症例報告を読んでいた藍沢は、モニターの片隅に出たアラートメッセージに眉をひそめた。
SNSはもっぱら海外の医者たちとのコミュニケーションの為に入れている。まめに返信を返す方ではない分、使い勝手がいいのもあってノートパソコンにもアプリをいれてあって、トレンドニュースや新着のメッセージはアラートが表示されるようにしていた。
「……雷か」
藍沢が帰宅したころは、今にも雨が降り出しそうではあったがまだ降るほどではなかった。立ち上がって、カーテンの隙間から外を見たがまだ降っている気配はない。
だが、SNSのトレンドになるくらいには雷がすごいらしい。
開いていたパソコンのブラウザを切り替えて、雨雲と雷レーダーのサイトを開く。笑えるほど落雷と雷雲が集中していて思わず目を細めて腕組みする。
この分だと、この辺りにはこれからその塊がやってくるだろう。
再び立ち上がった藍沢は、テレビをつけてタイマー予約されている状況を確認する。
今までなら気にも留めなかったこと。
いつだとか把握していなくても、何か楽しみにしているらしいこと。
天気が悪くてうまく動かなかったり、瞬電で録画が途切れていたら、どうなるか想像できる。
疲れて帰ってきて、荷物を全部置いてすぐシャワーに向かう。そして、ようやく鎧を脱いだところで缶ビールでも手にしながらいそいそテレビに向かう。
そして。
スケジュールを確認すると、この後しばらくすると録画が始まるはずだ。時間を確認した後、再放送がないか確認して念のためその予約もしておく。
二人で住む、というより、白石の住む部屋に転がり込むような形で一緒に住むようになって。
朝、普通に出勤するときは一緒に車で仕事に向かう。何もなければ藍沢の方が早く帰ることの方が多いかもしれない。
帰りは、体を鍛えることもあって、近くを走りこんでから帰ることが多い。車はそのまま置いておいて白石が帰ってくるときに乗ってくる。
だから今日も車は置いたままだし、まだかかる、と夕方言っていたということは帰りは朝になるかもしれない。
時計は真上を過ぎるくらいで、いつ帰るかわからない互いを起きて待つ、ということはしないのも暗黙の了解だ。
ただ、一つ、お互いに何となくするようにしているのは……。
携帯を手にすると、今日は帰るのかとメッセージを送る。しばらく待つと思っていたら、画面が暗くなる前に既読がついた。
『もうすぐ終われそう。お腹すいたので帰ります』
「……帰ってくるのか」
誰もいないからこそ小さく呟く。Tシャツとラフなパンツの上にパーカーを羽織ると、携帯と財布と鍵をポケットにねじ込んで部屋を出た。
外に出て空を見上げてすぐぽつぽつと大粒の雨が降り出して、迷ったが傘を開く。
そして藍沢は、仕事先に向かって歩き出した。
車で五分。
歩いても十五分程度だろうか。
だが、歩いているうちに雨足はどんどん強くなり、遠くで稲光も見えるようになった。音と光が大きくずれているからまだ離れていることはわかるが、急いだほうがいい。
足早に向かううちに、雷の音はどんどん近づいてきていた。
「よかったー」
「ほんと。落ち着いてよかったわ」
夕方に運ばれてきた患者の対応をしているうちに、ICUの急変が重なって、シフトは入っていなかったものの、対応に走り回っているうちに遅くなってしまった。
ほっとひと段落したので、夜の廊下のソファに腰を下ろして大きく伸びをする。
一つ隣のソファには冴島が同じように座っていた。
「白石先生が帰る前で助かったわ」
「そう?なんにしてもよかった」
すっかり大きくなった救命の体制は、昔のようにぎりぎりのメンバーでやりくりしていた頃とは違う。
だが、急患が運ばれてきて知らぬふりで帰ることはない。
そんなこんなですっかり遅くなってしまったのだ。
「ね、帰るの?」
「帰るわよ。お腹すいたし。冴島さんは朝まででしょ?」
「うん。そうだけど……。雨が降りそうだって思ってたけど、いよいよ降ってきたみたいよ?」
言外に、そのまま朝までいた方がいいのに、と匂わせたが昔のように一人で住んでいるわけでもない。
帰りたいだろうということもわかるので、強くは言い出さないでいると、振り返って外をじっと見ていた白石は、しばらく悩んでいたようだが、ふいに携帯を手にした。
どうやら、誰かから連絡が来たらしく、しばらく携帯に触れていたあと、白石は立ち上がった。
「ひどくなる前に着替えて帰るわ、やっぱり」
「そう。じゃあ、気を付けてね」
「ありがとう。お疲れ様」
急ぎ足で身の回りを片付けて、更衣室に向かう。
きつく縛っていた髪をほどいて、スクラブから着替えを終えれば、あとは帰るだけだ。バタバタして結局、昼過ぎに軽く食べられただけで空っぽのお腹はほっとして以来、かなり空腹感を訴えている。
「帰りにコンビニでも寄ろうかな」
こんな時間に食べるのはあまりよろしくないのだが、頭の中にはコンビニのおにぎりが浮かんでしまい、余計に空腹感が増す。
「あー……。やばいな。お腹すいた」
ぶつぶつと呟きながら着替えを済ませた白石が病院の裏手の駐車場に向かうと、もう外はかなりの雨が降っていた。
「うわー……。って、え?」
ドアから外に出て、車まで走ろうかと見上げていると、ぱっとライトがついて車が動き出す。
すーっと近づいてきた車が自分の車だと気づくのと、とっくに帰ったはずの人が運転席にいることに驚きながら、目の前で止まった車に駆け寄った。
「え、どうしたの?」
「迎えに来た」
「だって、夕方帰ったよね?」
「ああ」
助手席のシートに片腕をかけて、後ろを振り返ると、車をUターンさせて土砂降りの中を走り出す。
「ありがとう。わざわざ来てくれたのね」
「雷がすごいらしい」
「え、あ……っ」
そう話している間もだいぶ近づいてきた雷がぴかっと光ってすぐ、ごろごろと不穏な音が響く。
着替えている間はさっぱり気づかなかったが、急いで出てくる間にもごろごろ音がしていたなと思う。
その間にも立て続けに空が光って、しかも二度目の稲光はどこかに落ちたらしく、叩きつけるような音が響いた。
「きゃっ!!」
「……というように、だんだん近づいてくると思ったからな。帰らないで病院に泊まるならと思ったんだが」
「ごめん……。全然知らなかった」
「気にしなくていい。それより、どこかコンビニによるか?」
車も普段から乗っているのだから、どうということはないのだが、こうして疲れた夜に助手席に収まっているとそのありがたさをしみじみと感じる。
「コンビニによろうかと思って……ひゃっ!!」
いよいよ、雷雲が真上あたりに来たらしく、今度は音の方が先にすさまじく落ちてきた。
音に驚いて叫んだ時には、きれいに地上に向かって光る道がくっきりと見えた。
「……近いな」
「ちょ、もういい!帰る!帰ろう!早く帰らな……きゃっ!!」
確かに近いようで、立て続けにすさまじい音と光が落ちてくる。
車の中にいるとはいえ、これはコンビニに行くでは済まないだろう。
「いいのか?」
何の三段活用だと藤川なら突っ込むところだろうが、藍沢はちらりと助手席の白石を見てハンドルを切った。
「いい!もういいから、ひゃぁっ!べ、別に怖いわけじゃないけどっ」
「そうだな。たかが雷だな」
「そ」
うよ。
と言いそうになった瞬間、それまでで一番大きな音がした。
今度は悲鳴を上げるよりも、息をのんで咄嗟に伸ばした手をぎゅっと掴まれる。
「大丈夫だ」
「う……」
「もうすぐ着く」
あやすように手を繋がれて、マンションの一階に滑り込んで車は止まった。
手を引かれて雨にぬれずに部屋まで入ると、白石は大きなため息をつく。まだ雷はなっているが、少しずつ離れていっているようで今は雨音の方がすごい。
「何か作ってやるから着替えてこい」
「……うん」
どっと疲れたらしい白石が鞄を置いてシャワーを浴びに行くと、その間にキッチンに立った藍沢は冷蔵庫から適当に野菜を取り出した。
レタスやパプリカを適当に刻み、ブロッコリーを塊の半分ほどさっとゆでる。
その隣で卵を半熟にゆでて、サラダボウルの中に放り込んだ。
冷蔵庫からドレッシングを取り出してかけまわしたあと、物足りなさを感じてクラッカーを取り出した。
カッテージチーズを上にのせてプレートに並べるとしゃれた一皿になる。
「……夜食というより、つまみだな」
自分で苦笑いを浮かべるが、こんな時間に食べるならこういうもののほうがいい。
バスルームの音を聞いて、そろそろ出てくるころだと見計らって、テーブルに皿を並べる。缶ビールを二本取り出したところで、タオルを肩にかけた白石が戻ってきた。
「わ。なにこれ」
「夜食」
「ありがと。嬉しい」
ソファの前にぺたりとすわりこんだ白石と、そのすぐ後ろのソファに腰を下ろした藍沢は同時にプルタブを開けて軽く缶をぶつけた。
「お疲れ」
「お疲れ様。迎えに来てくれてありがとう」
「ああ」
一口飲んで、ほうっと息を吐いてからサラダに手を伸ばす。
「食べないの?」
「俺はいい。ちゃんと食べろよ」
「ん」
大人しく食べ始めた白石の背後で、パソコンを開いた藍沢は途中だったレポートの続きを読み始めた。
「そういえば」
「ん?」
「録画、だめかもしれないから再放送も予約しておいた」
ぴた、と動きを止めた白石が慌ててリモコンに手を伸ばす。デッキの中を確認すると、途中までは頑張ったらしく、頭出しはちゃんと取れているが、録画時間が短い。
「あぁっ!楽しみにしてたのに!!」
「だから」
ひょい、と手を伸ばしてリモコンを取り上げた藍沢が予約リストを表示させる。
「再放送の予約済み」
「あ……」
数日後の昼間の予約を見て、白石は藍沢を見上げた。
はやりのドラマや番組などは全く興味がなくて、噂や情報としては知っていてもわざわざ見ることはない。
そんな人がわざわざ、確認して予約して、それから帰りを気にして迎えに来てくれて、夜食も。
「……ありがとう」
返事の代わりに、ぽん、と大きな手が頭の上に載って、まだ半分乾ききらない髪をなでた。
「雷、すごかったから迎えに来てくれて助かった」
だまって、目はパソコンの画面を向いているのに、ちゃんと聞いているとばかりに頭に置かれた手が撫でる。
「これ、おいしい」
くしゃ。
長い指が髪の毛を遊ぶようにするからくすぐったくて頭を動かすと額からゆっくりとかき上げるように手が動く。
「甘やかしすぎじゃないですかね」
こんなに上げ膳据え膳状態なのは、とても慣れるものじゃなくて、くすぐったいような落ち着かなさがある。
髪をなでていた手が止まった。
頭を上げて見上げようとした隣にパソコンが置かれて、藍沢が膝の上に片肘をついて見つめてくる。
「甘やかしてるか?」
「んー……っていうか、ほら。お互い、自分のことは何でも自分でやるのが身についてるじゃない。あんまりこんな風に甘やかされてるといいのかなって」
「今だけだと思ってる?」
「そうじゃないけど……」
この甘さに慣れたらあとで困りそうで。
それが当たり前だとは思いたくなかったけど、人は慣れていくものだから。
うまく説明できないんだけど、と前振りした白石の言葉を黙って聞いていた藍沢は、しばらく考え込んだ後、小さく笑った。
「え?何、何か変なこと言った?」
「そうじゃない。そうじゃないが、言いたいことはわかった。まだ、足りないってことも」
「は?」
首をひねって、自分が言ったことから頭の中で繰り返した白石は、もう一度は?と呟いて藍沢を見上げた。
「どういうこと?」
「つまりお前の言いたいことを要約すると、今日みたいなのがたまにだと思ってる。たまにが当たり前だと思うと、残念だってことだろう?」
「そう……なるの?」
「なるな」
さらりと藍沢が応えると、腑に落ちないのか一人百面相状態で首をひねる。
その頭にもう片方の手を添えて、藍沢は額を寄せた。
「慣れたと思われないようにする」
「え?え?そういうことじゃないような……」
「いいからそういう事にしておけ。お前が大事なことは変わらない」
臆面もないセリフに白石の心拍数だけが跳ね上がる。
「ちょ、あの、あ」
「それ以上あれこれ言うと困るのはお前だぞ?」
そんなことを言うのは反則だと言おうとして、藍沢の目がいつになく細められたのを見て白石は慌ててビールに手を伸ばした。
雷よりも鋭く胸に刺さる。
その色はサルファー。
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