笑顔を向くヘリオトロープ

「せんせい、ありがと」
「どういたしまして。気をつけるんだよ」
「はぁい」

外来で傷口を見たあと、小さな子どもをハイタッチで送り出した。
それが今日の外来の最後で、ようやく昼食だ。

食堂でチキンサラダと、ライ麦パンのサンドを頬張っていると、隣のテーブルにブルーが反射して思わず顔を上げた。

「あれ?名取先生いたんだ」
「……いました」
「午前は外来だったよね。お疲れ様」

さらりとそう言うと、白石がスプーンを手にする。クラムチャウダーと、サンドイッチだろうか。

「白石先生、髪、伸びましたね」
「……ん。なかなか切りに行く暇がなくて、ついつい伸ばしちゃうのよね。ほら、結べば楽じゃない」

肩を少し超えるくらいだった髪が一度は短くなったが、再び伸びてきて、今は束ねていても背中にかかる。
伸ばしっぱなしだとこぼす割には、きれいな髪だ。

「どっちが好みなんですか?」
「え?」
「藍沢先生ですよ。長いのが好きなのか、短いのが好きなのか」
「ごほっ、ごほっ」

わかりやすい。
途端にむせた白石が咳き込んで、バタバタしているのを見て席を立つ。
グラスに水をくんで戻ってくると白石のテーブルにそれを置いた。

「どうぞ」
「あり……ごほっごほっ」
「そんなに動揺しなくても」

ははっと笑ってから、食事に戻る。答えを待っている間も、食べておかないといつまた食べられなくなるかわからないからだ。

しばらくして落ち着いた白石が、じろりと睨んでいるのはわかったが、サンドに集中しているフリをする。

「好みとかないから」
「あー、じゃあ、白石先生だったらどんな髪型でもいいってことか」
「そうじゃなくて!……そういうことじゃないから」

じゃあ、どういうことなんですかー。

頭の中では大声でそう言ったが、実際は口に入れたサンドのおかげというべきか、それ以上白石を怒らせることもなく沈黙が流れる。

「……どう?小児科」
「どうって……。まあまあですよ。子どもたちからも人気あるし」
「そう。よかった」

もうどのくらいになるだろう。フェローを卒業しても引き続いて、翔北に残ると決めた頃。

救命の中でも各々、専門がある。白石は、一般外科の他災害医療、藤川は整形外科だ。

灰谷は消化器外科、横峯が麻酔と集中治療を選択した中、名取は小児科、小児外科を選択した。
実家の総合病院も、小児科は必要である。翔北でも小児科の医師は多くはいないうえ、救命にはいなかったこともあった。

「小児科は忙しいし、救命もそうだから、大丈夫かなって心配してたんだけど、大丈夫そうでよかった」

重ねてよかった、と繰り返した白石に、一度上げた目が彷徨う。
白石は緋山とはちがって、指示ははっきりというが、基本的には個々の意見を聞いて、それを尊重しようとする。
だから時にはわかりづらくもあるのだが、こうして時々話をするとはっと気付かされることが多い。

「ハードはハードですけど、昔に比べたら救命もシフト組みやすくなったんじゃないですか?」
「そうだね。いい形で進められてるんじゃないかな」
「だから僕も、できるんじゃないかなって。実家に戻ったら、それこそここほど先生たちはいないからもっとハードになるはずだし」

よくわかる、とうなずいた白石も、翔北が今は様々な形で研修医を受け入れしている分、大変でもあるが人が多いことは確かだと思う。
地方や、個人の総合病院であれば、全く状況が変わってくることは想像できる。藍沢が札幌に行ったのも同じ理由だ。

「まあでも、無理はしないでね。無理すると集中力もなくなるし」
「ありがとうございます。白石先生がもっと休んで彼氏に会いに行けるようにがんばります」

違うから!

緋山ならそんな甲高い声が即座に返ってくるところだが、白石はだいたい、もごもごとなにか言い訳をして逃げていくことが多い。
どうせそうだろうと思って名取はタカを括っていた。

「……名取先生、今度、周産期医療センターの研修があるんだけど?」
「ごほっ、ごほっ」
「緋山先生とね、そんな話をしてたのよ。小児科医でも新生児を診られるのはもっと少ないじゃない?名取先生にはいい経験になるんじゃないかって」
「なん……っ、ごほっ」

名取の父親からも、そんな話は聞いていない。
聞いていれば、もちろん一番に手を上げていたのだが、白石のほうが情報が早いというのは当たり前でもあるが、納得がいかない部分でもある。

「ずっとじゃないのよ。シフトを調整してね。一日単位で。どう?最近、緋山先生にも会ってないから成長したところ見せてきたら?」

やられた。
こんな返り討ちをされるとは思っていなかった。

ようやく咳が収まって、まだ涙目に近い顔を向けるとにっこりと吹き出しが付きそうな笑顔が名取を見ていた。

「……考えておきます。小児科の文野先生にも相談して」
「あ、それは大丈夫。もうOKもらってあるから」
「えっ」
「じゃ、そういうことで」

いつの間にか、さっさと食事を済ませた白石がトレイを持って席を立つ。
ひらひらと白い手を振ってさっさと立ち去っていく姿に、名取は額を押さえた。

名取といえば携帯を手にしている姿を思い浮かべる者も多かったが、最近はそうも言ってられず、ポケットに入っていることも多い。
だが、その携帯を手にして、何度も書いては消し、書いては消しを繰り返す。

『ご無沙汰してます。最近は』

しばらく会ってはいないが、話は時々耳にする。父親のルートからだったり、白石と冴島の二人の会話だったり、色々だ。

緒方とはまだ続いていることも知っている。
ただ、いっしょには暮らしていないのは相変わらずらしい。

結局、途中まで打ったテキストは全部消して、ポケットにしまう。

屋上に出て、いつも通りのほうを向いて遠くを眺める。

―― 別にいいんだけどさ

どうせ、元気でやってるだろうし、仲良くやってるだろう。
だからどうということもない。
何かあれば、どうしたって耳に入ってくる。

随分会ってない。

顔なんかみてなくても。

「名取」

びくっとして振り返りそうになる。
ナースステーションに向かって歩きながら、だいぶヤキが回ってると頭に手を回した。

「……まさかね」
「ちょっと!何、聞こえないふりしてるのよ」

足を止めて。
息が止まるかと思った。

振り返った先に、パンツ姿の緋山が立っていた。

「少しは成長したところ見てやろうと思って」
「なに……。何言ってんですか。そんなの見に来なくても」
「なんだ。相変わらずか」

歩いてきて、ぽんと肩を叩かれた。
少しも変わらない顔で。

一瞬止まったと思った血が一気に頭に流れた気がした。

「相変わらずはそっちでしょ?いやだなぁ。その顔、大丈夫ですか?荒れてません?」

慌てて顔を押さえた緋山に眉を上げて顔を背けた。

「な、何言ってんの。大丈夫に決まってるでしょ。ちょっと昨日満月だっただけよ!」
「満月って何ですか。狼男じゃあるまいし」
「ばっかじゃないの。双子は生まれるし、早産あるし、大変だったんだから少しくらい肌荒れするの!」

やっとやり返したと思ったら相変わらずの会話だ。
それがどれほど嬉しいか、きっとわからないだろう。

「そうですよね。ちょっとやそっとの肌荒れくらいは緒方さん、なんとも思わないでしょう」
「うるっさい。あんた、ほんと相変わらずムカつく!!」
「違いますよ。成長してますから。これでも。今度、そっちに研修に行くくらいには」

鼻の頭に皺をよせて、心底いやそうな顔をしているのを見ていると、おかしいが嬉しいと思ってしまう。

「……ほんと、あんた」
「なんですか」
「いいわよ。もう」
「気になるじゃないですか。言いかけてやめるなんて緋山先生らしくない」

ちっと盛大な舌打ちが聞こえてきて、すぐそばにいた緋山がまっすぐに睨みつけてきた。

「あんた、うちに来るならちゃんと腕上げたところ見せなさいよ。あんたのことだから、ちゃんとやることはやってんでしょ。そこは……ちゃんと信用してるんだからね」

なんだよ。

いうだけ言って、緋山は部長室のほうへと歩いていく。
その後ろ姿に、唇を噛みしめた。

「……なんだよ」

悔しい。

悔しいのに、何か動く気なんて少しもないのに。

太陽を向くように、病院から見える周産期医療センターのほうを眺めてしまう。

また何か、突っ走って一人で苦しんでないかと思ってしまう。

そんな人だから、小児科を選んだ。同じ産科医ではなく。
今はまだ、大きな差だけれど。

「……やってられっかよ」
「名取先生?どうかした?」

すれ違った横峯が不穏なつぶやきに目を丸くしていたが、かまわず歩いていく。

まだ、足は止めない。

— end

投稿者 kogetsu

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