「新海せんせー」
「何?」
「今度ー、友達と合コンするんですけど先生も来ません?」
「いいよ。行くよ」
ふふーん、と機嫌よさそうにすれ違ったナースが新海の肩に手をおいた。
「……先生?また途中で帰っちゃうの、嫌ですよ?」
ふ、と笑い返してすれ違う。
―― 遊びならね
遊び相手なら困ることはない。
医者で、独身で、腕もいい。
人当たりだって悪くない。
「……俺より口が悪い男のほうがいいなんてな」
脳外は今、あの男がいないから新海の独壇場だ。
緊急の手術もないので、病室を回ってエレベータに乗る。
「白石先生」
「お疲れ様です。新海先生」
「救命、今日は静かですね」
「ええ。おかげさまで」
にこっと笑いかける横顔が可愛い。
素直にそう思う。
可愛いと思う女性は何人もいるが、彼女は特別だ。
「どうです?早く上がれそうなら一杯」
「あ……。こういう日だから日ごろ溜まってる書類片づけたくて……。すいません」
「いや。そうですね。わかります。でも、藍沢がいない間に、絶対一度はいきましょうね」
曖昧に笑った顔をみて、強気で押し切ったら一度くらいは飲みに行けると踏む。
―― そう。俺にもチャンスはある
白石よりも先にエレベータを降りた新海は、リハビリ病棟に足をむけた。
少し離れたところから、聞こえてくる音が飛ぶ。
「新海先生?」
「奏ちゃん」
「どう?だいぶ動くようになったでしょう?」
普通の人ならこれでも十分だろう。
でも、彼女はそうじゃない。
思うように動かない手のせいで、何度も何度も同じフレーズを繰り替えす。
それでも初めの頃は曲にも聞こえなかった。そこからここまで回復したということはすごいことだ。
「まだ藍沢先生は戻ってこないの?」
「うん。まだだよ」
「藍沢先生がいないから、新海先生もてもてみたいじゃない」
何度も何度も通っているからだろうか。病院の中の話なのにこんな話までするなんて、今どきはプライバシーがどうとかうるさいのもどこの話だろうと思う。
「もててないよ。看護師の話は半分に聞かないと」
「ふうん?でも、新海先生のほうがやっぱりかっこ悪いよね」
「えぇ?ひどいなぁ。どうして?」
若い子にはわからないよ、とか、いってもいい。
でも、新海の目の前にいる奏にはそれは通用しないだろう。
その感受性があるからこそ、彼女の奏でる音は素晴らしかったのだから。
「なんていうのかな。ちょっとずるい」
「ずるい、か」
「そう。新海先生、好きな人、いるの?」
にこっと笑って黙る。子供相手に本当のことを話すわけもない。
そして、プライベートを話すほどのこともない。
「じゃあ、頑張って」
踵を返した新海の気配を振り返ることもなく奏はさらりと言った。
「逃げるんだ。新海先生らしいね」
「そうじゃないよ。そうじゃないけど、プライベートだからさ」
「あの人、盗っちゃえばいいのに」
ぎくっと足を止めた新海が振り返ると、奏は振り返って新海を見つめていた。
まっすぐ射貫くように。
「あの人って……」
「ずるいくせに、そういうところは意気地がないんだ」
「いや、それは……」
ふい、と笑いもせずに顔を背けた奏はもう何も言わなかった。
ただ、聞こえるピアノの音が責めている気がしていたたまれなかった。
「あ、新海先生」
「白石先生。どうしたんですか?」
私服姿の白石を目にした瞬間、反射的に笑顔になる。
どれだけ陳腐だと思っても、心は正直だ。
「お忙しいところにすみません。これ、ちょっと出かけてたのでお土産です」
「お?出かけてたって……」
医局の机に置いてあった菓子を見て、手が止まる。
確か白石は一昨日、病院で見かけた。昨日一日でどこにと聞かなくてもよく知られた菓子だ。
「行ってきたんですか。……藍沢のところに?」
「……まあ」
「そうですか。じゃあ、その土産話、聞かせてくださいよ。食事でもしながら」
「え……。でも、土産話というほどのことは……」
困惑した白石の様子に想像はできる。
でも、ここでやめるくらいなら初めから足は踏み出しはしない。
「いいでしょう?僕、今日はもうすぐ上がりなんですよ」
「でも、私は……」
「お願いしますよ。雪まつり、みてきたんでしょう?じゃ、下で待ってますから、一時間後に」
「あっ、ちょっ……」
負ける賭けは嫌いだ。
でも、負けるつもりで賭けに出るつもりもない。
「……わかりました。そんなに長くはいられないと思いますけど」
「十分ですよ。それにチャンスはまだありますしね」
新海は白石の肩に手を置いて、ふっと笑った。
まだ、この賭けは終わってない。
救命の医局に戻った白石は、土産をみんなに渡している間に着信で震えた携帯を手にして廊下に出た。
「はい」
『俺だ。まだ乗ってなかったのか』
「そんなわけないでしょ?何時間たったと思ってるの」
思わず笑いだしそうになった。白石や藍沢の時間は、こういう移動の時には現実の時間と大きくずれているときがある。
『……そうだな』
「お土産、ちゃんと買ったわよ。いわれた通り」
荷物になるから買わないつもりだと言った白石に、必ず買えと藍沢が言ったのだ。
買って、休みを楽しんできたと言って帰れと。
約束だからと律義にそれを守った白石は散々あちこちでからかわれてしまった。
―― もしかしてこうなることがわかってて買えっていったのかしら
そう思うとなんだか悔しくて、文句の一つも言いそうになる。
「やっぱり買わない方がよかった」
『なぜ』
「なぜって……」
―― やっぱり……
『脳外にも持って行ったのか?』
「新海先生が」
『あいつがなんだって?』
もし、誘われたって言ったら、どうするのだろう。
相変わらず、変わらない口調で好きにすればいいだろう、と言いそうで続きが言えなくなる。
「……なんでもない。それより次に会える時は雪、なくなってるわね」
『そうだな。だけど、桜は一緒に見られそうだぞ』
「えっ?」
『そっちに戻ることが決まりそうだ。だから、近いうちにそっちに行く』
それは、顔を合わせているときに教えてくれてもいいのじゃないかと思った。
思ったが、それよりも……。
「ねぇ?」
『なんだ』
「今日、これから新海先生が土産話を聞かせてくれっていうから食事に行こうと思うんだけど」
ぴたりと電話の向こうからの声が止まる。
「きいてる?」
『……行くのか』
拗ねてるのか。
少しだけ声のトーンが違う。
「行くわ」
行くけど。
「土産話って言っても、大して話せないんだけど、その分少しくらい惚気てもいいかな?藤川先生ほどじゃないけど」
恵、と呼んでいた人は今どんな顔をしてるのだろうか。
そう思って息を飲みこんで。
『悪いわけないだろう』
「……いいの?」
『あいつが胸焼けするくらい聞かせてやれ』
―― ねぇ。それ、今どんな顔で言ってるの?
きっと、頬が赤いことも隠してくれる気がする。
丁度、雲が切れて窓の外の夕日がまぶしかった。
—end