「じゃあ、それでお願い」
「わかりました」
「あといいかな?」
午後、珍しく落ち着いた日で、夕方の外来が始まる前の時間に、白石は研修医を前に腰に手をあてて立つ。
研修医は、短期研修で翔北に来た医師で年齢は白石よりも上だが、救命のキャリアは白石のほうが上だ。日頃、じっくりと付き合うことが多いだけに、瞬間の判断に迷いが出やすい。
「今日は落ち着いてる方ですし、どうしようと思ったら近くにいる先生とか、橘先生に相談してください」
「わかりました」
任せてください、とは言い切れない歯切れの悪さが気になったが、構いすぎてもいけない。
話を終わらせると、これもまた珍しい時間に医局に足を向けた。
人のいない医局で自分の席に座ると、パソコンを立ち上げる。
「失礼します。藤川せん……。あらっ、白石先生、まだいらっしゃったの?」
どうやら藤川を呼びに来たらしい看護師長の大原がぽつんと座っていた白石に目を丸くして近づいてきた。
「あー……。藤川先生ならまだみたいですよ」
今日は夜勤のため、もうそろそろ姿を見せるはずだ。
そう答えた白石の側に立った大原は、両手を腰に当てる。先程の白石よりも、よほど堂に入ったベテラン感が出る。
「そうじゃありませんでしょ?白石先生。午後からお休みでしょう?しかも久しぶりの連休じゃありませんか。スパッと切り上げないといつまでたっても帰れませんよ?」
「う……、はい」
これだけ、これだけ、と言いながらすでに16時をまわっている。これで忙しければ、どのみち先送りになるものばかりだが、つい、今のうちにと残ってしまっていた。
「白石先生がいつもおっしゃってるじゃありませんか。この病院だって医者の働き方改革は進めなきゃいけないんですからね?」
「……ハイ」
わかっています、と何度もうなずいた白石のパソコンを伸びてきた手が閉じる。
その場で立ち上がらないと大原は許してくれない気がしてきて、白石はうなずきながら重い腰を上げた。
「じゃあ……、あとはよろしくお願いします」
「はい。わかりました」
大原に追い出されるように更衣室に向かった白石は、大きくため息を付いた。
緋山が抜けて、藍沢がトロントに行き、翔北の救命はあの頃からすると、大きく変わった。
橘と白石とで、話し合いを重ね、救命の研修を広く受け入れるようになった。もちろん、フライトドクターの認定は変わらず時間を要するが、フェローたちよりも、もっと実践を重ねてきた医師たちが、救命を学ぶために短期、長期と研修に来る。
だから、人数で言えばかなりの人数がいるようになった。
私服に着替えた白石は、縛っていた髪を解く。
軽く頭を振ってから荷物を手にすると、更衣室をあとにした。
病院の裏に止めてある車に乗り込んでから携帯を手にする。
メッセージアプリを開くと、ショップや公式からのメッセージに並んで未読の数字がついていた。
タップすると、いつものように短いメッセージだ。
『何時につく?』
ふ、とようやく白石の口元が緩んだ。
飛行機の時間は大体でしか伝えていない。お互い様だが、あてにならないからだ。
『朝の便に乗るので、ついたら連絡する』
それだけ返してからエンジンをかけた。
家まで5分の距離だが、遠回りして大型スーパーに寄る。特に荷物らしい荷物は持たないつもりだったが、迷いながらもあれこれと買い物を済ませて家に変える。
その間、数時間くらいなんて、普段は連絡などないことが多いのに、家につくとまた未読のサインが付いている。
『迎えに行くから、乗る前に連絡』
『すること』
それを見て思わず吹き出した。
「……珍しい」
言い切りや、こうしろ、なんていつものことなのに、わざわざあとから【すること】なんて送ってくるところを見ると、落ち着かないのは白石だけではないらしい。
今、藍沢は北海道にいる。翔北にドクターを迎えるということは、そのドクターがいた病院は人手不足になる。
基本的には、その病院や近隣の病院でなんとかフォローするところだが、トロントの実績もあって、ぜひにと頼み込まれた。
半年、といってもその期間は結局あってないようなもので。
「もう半年すぎちゃったもんね」
休みがないわけではないだろうが、お互いなかなか自由になる時間は取りづらい。半年くらい、トロントに比べればと思っていたが、思い立って休みをとった。
雪まつりの期間に差し掛かるなら、見たことがないし丁度いいからと理由をつけて、明日の朝の便で札幌に向かうつもりだ。
買ってきた荷物を広げて、明日持っていくつもりの鞄を広げたところで携帯がなった。
「はい」
『俺だ』
「お疲れ様。まだ病院じゃないの?」
『そうだけど……』
普通なら夕食の時間だろうが、藍沢が帰るならもう少し遅いはずだ。時計を見た白石は電話の向こうで黙った相手に、ん?と問いかけた。
『だから何時につくんだ?』
「ああ。だって、空港から市内までは一人で行けるわよ」
少しでもゆっくりしていてほしい。
そんな気持ちもあって、曖昧にしていた白石の耳に、ふーっとため息が聞こえた。
『いいから。何時に乗って何時につくんだ』
「え、本当にいいってば。1時間位でしょ」
『お前な……』
ふっ。
言葉を切ったその声が耳元で優しかった。
『俺が迎えに行きたいから聞いてるんだ』
「……だって、すごく早い……」
『だから?』
――……ああ、ほら。これだ
そっけないくらい普段は言葉が少ないようで、大事なところはきちんと言葉にする。
それは、“こう”なるときも、そうだった。
「……ああ、それで……なんだっけ」
『いい。もう寝ろ』
「うん。……ていうか、藍沢先生、眠くないの?」
『こっちは朝だからな』
携帯の向こうはそういえば朝だ。
そう思ったけど、眠さのほうが勝る。そんな眠さも、何の気なしに口にした言葉から一気に引き戻されると思っていなかった。
「ん……、なんだか一緒に働いてた時より話してるかも」
『それはそうだな』
「みんなにも電話してるんでしょ?」
『いや。お前だけだ』
「えっ……」
たまたまだ、とか。
そんな言葉が返ってくると思っていたのに、思いがけない言葉に一気に眠気が冷めた。
「それは……」
『傍にいない分、新海みたいな変な奴に持っていかれても困るからな』
「持っていかれるって……。私、モノじゃないんだけど」
『ものじゃないから困る。帰るまで待つつもりもないしな』
待つって何を?
そう、口にするはずだったが、それより先に耳に届いた声に息が止まるかと思った。
『お前のことが好きだから、ただ黙って待ってるつもりもない』
「あの……」
『今じゃなくていい。ゆっくり寝て。またかける』
「……うん」
『じゃあな』
あの、心臓が止まるかと思った瞬間から、今こうして話している今も、藍沢は変わらないのだ。
息を吸い込んだ白石は、ちゃんと聞いて、と口を開く。
「あのね。そう言ってくれるのは嬉しいけど、お互い様でしょ?1時間でもいいから少しでも休んでほしいの。私なら大丈夫だから」
『……わかった』
「ありがとう。……ちゃんと、行くから」
『ああ。じゃあ……』
じゃあ、と言いながらいつもならすぐに切れる電話が切れない。
「もしもし?」
『……なんでもない。早く寝ろ』
「はいはい。お休みなさい」
まったく……と思いながら電話をきるのも、なれるものではない。緋山のことをからかっていた頃が懐かしい気がする。
「さてと。朝早いんだから早く支度して寝なくちゃ」
目の下にクマを作って会いに行くのもどうかと思う。
少しは女子らしいことも考えるのだ。