国内線。しかも、札幌行きは便数も多いわけだが、自宅から羽田に、しかも朝の6時台につくのはなかなか難しい。
だからといって、前泊するかといえば、それもどうかと思う。
雪まつりのためにツアーも多いのか、飛行機は午後までパンパンに埋まっているのだから、都内や空港の近くはそういう観光客の方が多いだろう。
まだ暗いうちに目を覚ました白石は、冷え切った車にエンジンを掛けて、暖気したあとにゆっくりと走り出した。
家の近くを抜ければあとは大きな幹線道路になる。好きな曲というよりも、時間がわかるよう、FMをかけながら車を走らせた。
途中で、テーマパークのそびえ立つシルエットが朝日に照らされるのを横目にしながら、少し自分でも浮かれているなと思う。仕事でもなければこんな早い時間に起き出すことは滅多に無いだけに、そのせいだと自分に言い聞かせていても、指先がキラリと光った。
早く寝なければと思いながら、いつもはしないマニキュアを塗って、ネイルシールもつけた。
たった数日ですぐに落としてしまうからしっかりしたものはつけないが、それでも少しばかりの乙女心というやつだ。
すっきり遠くまで晴れた空を見ながら高速を通って、カーナビの指示に従って一般道に降りる。急に狭くなった道路を走りながら同じ方向に向かう車に続いて、一帯が大きなロータリーのような中を標識を見ながら駐車場を目指す。
家や仕事場の近くはこんな時間にこれほど多くの人を見ないのに、ここだけはまるで別の世界のようだ。
大きなシャトルバスや観光バスを見ながら立体の入り口にようやくたどりついて、ゲートをくぐる。矢印に従って上階にあがれば、早朝だからこそなのか、たくさんの車が止まっていてすごいなぁ、と思う。
空きを見つけて車を停めると、後部座席に載せていたバッグを手にした。
たった一泊だけだ。
着替えも最低限で少ないのは帰ってきて仕事場に直行するつもりもあって、少し大きめのトートバッグはとても旅行客には見えないだろう。
車をロックして、エレベータでターミナルまで移動する。天井が高く、吹き抜けているだけに人のざわめきの間を抜けて歩く。
預ける荷物もないので、チェックインを済ませると、ふらふらともうすでに開いていたショップに目を向けた。こつこつとヒールがなるのもいつもと違う。
「……お土産って……、ないよね?」
わざわざ買うようなものでもなく、どちらかといえばこれから向かう先こそ、土産を買いに行くような場所だ。
「うん。そもそも……こういうのが初めてってどうなのって話よね」
ぶつぶつと独り言をこぼしているが、それも仕方がない。
なにせ、トロントに行ったきり、2年と少し。
全く帰ってこなかったのかと言われれば、数回帰ってくることはあったが、それも仕事でのとんぼ返りである。顔を合わせて話もしたが、二人きりというのは殆どなかった。
そして、翔北に戻っていくらも経たないうちに札幌行きだ。
普通の恋人同士らしいようなことも、こんなふうに遠距離の相手のところに駆けつける、というのも初めてである。
お互い、誰かと付き合う、ということがなかったわけではないのだが、どうにも落ち着かないのだ。
「……やめた。ウロウロしてても仕方ない。もう中に入っちゃおう。うん」
都内に行かないとないような店もいくつか見かけたが、わざわざ荷物を増やすこともない。
そう思って、ゲートを目指して歩き出した白石は、周りのざわめきを感じて同じように周りをキョロキョロと見回した。
何かが聞こえたわけではなかったが、周りの人の反応につられた、といっていい。
そこからバタバタと走っていく警備員なのか、空港スタッフなのか、とにかく制服の姿を目にしてその先が自分の向かう先と同じなのもあって、足を早めた。
近づいていくともっとはっきりと、ザワザワと様子を伺っている。
「……ケガ……」
「……大丈夫かな……」
通りすがりの声を耳にしながらそのまま進むと、エスカレータが止まっていて、その前に人だかりができていた。
「あの、どうしたんですか?」
近くにいた若い男女に声をかける。
「あ。あの、エスカレーターの上から人が落ちてきて……」
「そう、カートが入らないようにあそこに、棒っていうか真ん中に立ってるじゃないですか。あれにぶつかっちゃったみたいで……」
女性の方がより詳しく教えてくれた通り、上を見上げるとエスカレーターの乗り口の真ん中に支柱のようなものが立っている。どうやらそれにぶつかってしまい、そのまま転がり落ちたらしい。
幸いなのか、人を巻き添えにした様子はないが、中年の女性が倒れ込んでいる。
警備員が側についていて、無線でなにかやり取りをしているようだが、白石は迷わず足を踏み出した。
「あの」
警備員に声をかけて名乗った白石に三人ほど集まっていた警備員たちが一斉に振り返る。
「お医者さまですか。ちょうど今救急車の手配をしたところで……」
「なるほど。ちょっと診てもいいですか?」
「お願いします!」
倒れ込んで唸っている女性にかがみ込んで全身に目を走らせながら、落ちた時の様子を聞く。
「誰も下にいなかったんですか?」
「ええ。それが良かったというか、なんというか。こちらのキャリーバッグを持っていたので、それが余計に……」
「ああ……」
前をよく見ないでエスカレータに乗ろうとして、支柱にぶつかり、キャリーバッグがなければ躓いても手すりに捕まって、下まで落ちることはなかっただろう。
だが、四輪のキャリーはよく滑る。
転がったキャリーに足をもつれさせて、更に止まれずに下まで落ちたようだ。
手すりを乗り越えて下に落ちなかっただけマシだと思いながら、倒れ込んでいる女性の姿勢を少し変える。脱げかけていたヒールを脱がせて、傍に置く。
痛がった片足に手を添えて触診すると、腫れと歪みから折れているようだ。それに、顔のあたりから出血があようで、手で抑えているから顔がよく見えない。
「聞こえますか?今、自分で痛いところ言えますか?」
「……痛い。いたい……足と、顔が……」
「お顔ちょっと見せてもらえますか」
どうやら持っていたハンカチで押さえていたらしい手をそっとどけると額がぱっくりと切れている。すぐにハンカチで押さえてもらい、なにか他に使えるものはないか警備員を振り返った。
空港にはクリニックもあるが、それよりも先に救急車が早かったようだ。
出発ロビーにいたが、吹き抜けの場所だけに下の階に救急車が到着したことはすぐわかった。
案内した警備員が救急隊に、白石のことを話してきたらしい。
駆け付けた救急隊がまっすぐに白石の元に来る。
「お医者様ですね」
「はい」
状況と診たてを伝えて、応急処置の指示を出す。
寒い時期だったからも幸いしたと思う。
ニットと、厚手のコートがある程度かばってくれたようで、足と額以外には目立つところはなかったが、改めて搬送先の病院でチェックしてもらうように伝えた。
「ありがとうございます!」
「いえ。手持ちに何もなくてあまりお役に立てませんでしたが……」
プライベートで、しかもこんな場所では、とりあえず、近くのショップの人が持ってきてくれた真新しいタオルで圧迫止血するくらいしかできることはない。
救急隊が女性に名前や連絡先などを聞きとり始めたので、立ち上がってその場を離れた。
一番近いトイレで手を洗ってから、はっと我に返る。
慌ててトイレを出た白石は搭乗ゲートに急いだ。
早めに来ていたはずが、もう搭乗までギリギリだ。
“ご搭乗のお客様に……”
チェックインを済ませていたから、白石の席はキャンセル待ちに回されることはなかったが、その分、フルネームでの呼び出しだ。
保安ゲートの優先レーンに飛びついてわけを話すと、すぐにチェックを通してくれた。
そこから、リアルに名前を呼んでいる地上スタッフに名前を言って駆け寄る。
「白石様ですね!搭乗時間を過ぎておりますのでご案内いたします!」
「すみません!!」
言葉遣いは丁寧だし、親切ではあるがものすごく早足だ。
一応気を使ってくれているのだろう。申し訳なくて口を開いた。
「あの!走れます!大丈夫です!」
「ありがとうございます!では……」
そういうと、タイトスカートでよく走れると思うくらいのスピードでゲートへと向かう。
これが新千歳行きだったのもついていたかもしれない。保安ゲートから割合近い場所に走り込むと、待ち構えていたスタッフに引き渡される。
「お待ちしていました。こちらに!お急ぎください」
スマホをかざしてゲートを抜けても地上スタッフが一緒についてきてくれる。
ばたばたと機内に走り込むと、CAさんは笑顔で迎えてくれた。
「すみません……!」
「いいえ。間に合ってよかったです!」
息を切らした白石を席に案内してくれて、すでに座っていた人たちの視線が痛かったが、前の方で“最後のお客様が搭乗されました”というやり取りが聞こえた。
「はぁ……」
シートベルトを締めてようやく、ホッと息を吐く。足元に鞄を押し込んで携帯の電源を切ると、小さく揺れてどうやら飛行機が動き出したらしい。
満席状態の飛行機を危うく遅らせてしまうところだったと思うと、冷や汗モノだが乗ってしまえばである。
――あ。乗る前に連絡しようと思ったのに……
すでに動き出した機内で改めて電源を入れる気にもなれない。
シートに深く座り込んだ白石は、そのまま目を閉じた。
にぎやかな機内だけに、眠れはしなかったが、大きな飛行機だけに揺れも少なくて快適だった。
着陸前に、現地の気温を聞くと改めて、ここまで来たんだ、と思う。
荷物が少ない分、バッグを持ってスムーズに飛行機からでる。そのまま到着ロビーに出る途中で携帯の電源をいれておいたから、ロビーにでてすぐにアプリを立ち上げた。
人の流れの邪魔にならないようにゆっくり歩きながら未読を開くと、すでにおはよう、とメッセージが来ている。
『おはよう。なんとか無事につきました』
これから向かうと入れようとしていると、電話が鳴った。
「もしもし?」
『俺だ。ついたのか』
「うん。ちょうど今メッセージ送ってて……」
ふっと、電話の向こうの音に言葉を切る。
妙にザワザワしている気がして耳を澄ます。
「ねぇ。今どこにいるの?」
『ちょっとそのまま……』
「え……」
はぁ。
――息がきれてる……
恵。
――名前を
「恵!」
名前を呼ばれたと思ったら、それが電話越しじゃなくて、えっ、と驚いた次の瞬間、携帯を持っていない方の腕を掴まれた。
「きゃっ」
「だから、そのままって……。はぁ……」
息を切らせた藍沢が携帯の通話を切って、大きく息を吸い込んだ。
「なんで……」
「お前、電車でって言うけどな。こっち、気温もぜんぜん違うしわかってないだろ!」
目を丸くした白石の腕をつかんだままで、膝に片手をついた藍沢はしばらく息をついた後、呼吸を整えて体を起こした。
「少しは、こっちの心配もわかれよ」
「……ごめん」
「車で来たから。行くぞ」
「あ……」
そのまま手を引かれて白石は到着ロビーの近くに止めてあった車に押し込まれた。