ソファにぐったりと沈み込んだ大祐は、額に腕を乗せて力尽きそうになっていた。
あれから30分ほど、リカが寝入るまで、そして、寝入ったかどうかを確かめたくてもこれで動いて起こしてしまったらと思い、もう30分。
合わせて1時間ほど、拷問時間を過ごした後、もう大丈夫だと思ってベッドを抜け出した後、ソファに倒れこんでからしばらくたつ。
もうボヤキも言葉も出ないでいたが、なんとか気持ちを立て直した大祐は、ローテーブルに放り出していた携帯を手にした。
リカのあの様子では今日一日で熱が下がるとは到底思えない。せめて38度台前半ならなんとかなるかもしれないが、あのふらふらな様子を思うと放り出して帰るには葛藤がある。
ひとまず、今週の予定はそれほど立て込んではいない。携帯に登録してある山本室長の携帯へ、事情と休みをとれるかどうか打診をしてみた。
その上で、以前、一度だけ食事をした珠輝に向けて状況をメールする。休みの連絡はリカ本人がするにしても、大祐がもし帰った時に、手を借りられるかもしれないと思ったのだ。
ほどなく、手の中で振動が来たと思ったらメールではなく珠輝からの電話だった。
キッチンに移動した大祐が電話に出る。
「もしもし」
『空井さん?こんにちは。佐藤です』
「はい。ご無沙汰してます」
『いえ、それはいいんですけど、稲葉さんの具合どうですか?熱はどのくらいあるんですか?』
立て続けに問いかけてくる珠輝に、インフルエンザではないらしいこと、それでも熱が高いことを話す。電話の向こうでは妙に真面目な返事が続く。聞き終えた珠輝が、口にしたことに大祐は思わず絶句してしまう。
『わかりました!じゃあ、申し訳ないんですけど、絶対熱が下がるまで稲葉さんに休むように言ってください。高熱を出してるときの稲葉さんって凶悪すぎるんです!』
「きょ……おあく?」
病人を心配するときに出てくる単語ではない言葉に、はてなが思い浮かぶ。きっと目の前にいたらひどく真剣な顔をしてそうな声が聞こえてくる。
『前に、稲葉さん、熱があるのに無理して仕事に来たんです。そりゃ、会議とかどうしてもって時にいてくれたのは助かったんですけど、稲葉さんて普段はガツガツじゃないですか。なのに、具合が悪いせいかめちゃくちゃ甘えん坊で、可愛くなっちゃって、周りにいたスタッフも普段とのギャップ萌しちゃうし、自覚なしで素直で可愛いお願い連発するから大変だったんです!見かねた阿久津さんがタクシー呼んで帰らせたんですけど、家まで送るって人もいっぱいいて、もう大変だったんです!』
「……ああ、そう……」
想像するだけでくらくらしてくる。確かに自分は惑わされたが、そこにはギャップ萌という要素があるとなると、職場の中に恋敵増産ということになる。リカの具合が心配なだけでなく、自分がこれだけ振り回されたキュートなリカをまるで狼の群れに放り込むような真似ができるかと思ってしまう。
『いいですか?そのボーダーは38度越えです!絶対、それ以上あったらお休みさせてくださいね!』
「わかりました……。休みの連絡はリカがすると思いますけど、一応、佐藤さんには……」
『わかりました!任せてください』
「はい。じゃあ、俺も、休めるかどうか微妙なので、もし何かあったらよろしくお願いします」
しっかりした声にひとまず安心した大祐は、それじゃあ、と言って電話を切った。切ってすぐ、今度はメールが届く。
休めるか打診していた山本だった。
『事情はわかった。明日一日くらい、お前が休んでも問題ない。いつもは離れて心配ばかりかけているだろうからこういうときくらいは嫁さん孝行でもしてきなさい。状況はまた連絡するように』
「お……。よかった」
一応、リカも大祐も社会人である。具合が悪いとしても、一人で何とか対処ができるくらいのことは当たり前だし、このくらいの熱でというのもある。いつも一緒にいられず、具合の悪い時さえ知らずに過ぎていくこともあるくらいだからこそ、たまには傍にいてやりたい。
そんな大祐の迷いを見透かしたような山本の即断はありがたかった。
すぐに、電話をかけて礼を言うと、逆に心配されてしまった。
『女性は繊細だからな。無理しなくていいからちゃんと面倒を見てあげなさい。こういう時こそ、日頃不安にさせている分、いくらかでも返してやれる機会だから』
「はい。ありがとうございます」
『長引くようだったらまた連絡しなさい。その時、相談しよう』
「わかりました。失礼します」
ぴっと電話を切るとキッチンに寄り掛かる。
これで、あと一日リカの傍にいて、看病ができると思うと、いくらか安心できた。明日はもう一度、医者に連れて行くこともできると思えば、大祐の心配もいくらか落ち着く。
「よし……」
気を取り直すと、朝作った粥がまだだいぶ残っている。あとは、洗濯かな、と呟いてリカの着替えや、汗をかいただろう、シーツの替えなども考えて洗濯機を回し始めた。
昼過ぎにリカが目を覚ますと、部屋の中はすっかり片付けられていて、リカの顔が一気に曇る。
ソファに座ってテレビを見ていた大祐の傍にひたひたと近づいたリカに、大祐が顔を上げた。
「起きたの?どう?」
「うん。汗かいたし、だいぶ熱も下がった気がする」
「どれ」
ソファに引っ張られてすとん、と大祐の隣に座ったリカに額を寄せる。おでこで計ると、確かにいくらか下がっている気はした。
「少しいいみたいだけど、まだ手はあったかいよ?無理しちゃだめだからね。お昼だけど少し食べられる?」
「ん。顔だけ洗ってくる」
ゆっくりと立ち上がったリカの後に続いて、キッチンに向かった大祐がリカのお昼の支度を整える。
冷たいスポーツドリンクと、常温になったものの両方を用意してリカを座らせると、その肩にひざ掛けをかけた。
「寒くない?」
「うん。いただきます」
スプーンを手にして食べ始めたリカがなるべく大祐の方を見ないようにしている。隣に座った大祐がリカの顔を覗き込んだ。
「リーカ?」
「おいしいよ?」
「どしたの」
ちらっと眼を上げたリカが不安そうに揺れる。その顔を見ていると放っておけなくなって、リカの背後に回ると後ろから抱き締める格好で座った。
「……ごめんね?せっかく、大祐さんが来てくれて、一緒にいっぱいデートして楽しく過ごそうと思ってたのに。もう週末終わっちゃう」
「いや、全然。風邪ひいて具合が悪いのは可哀そうなんだけど、こんなこと言ったらいけないのもわかってるよ?でもね……。なんかすごく得した気分」
俺はね、という大祐が不思議で仕方がない。
いくら、好きな相手でもわざわざ松島から来て疲れているはずなのにこんな風に、自分は食事さえ用意させて、面倒をかけている。そして、もうすぐその人は帰る時間なのだ。
リカのなかでまとまりのない感情が散らかって、寂しさが浮かび上がってくると、罪悪感と不安と寂しさがまだらに広がる。
背後にいた大祐がリカの頭をぽんぽんと撫でた。
「なーんで泣くの?寂しくなった?」
食べながら泣き出したリカを苦笑いで受け止めた大祐が、ぽろぽろと流れる涙を指先で拭った。
「……だって、せっかく。大祐さん、来てくれたのに、私、ただでさえ奥さんらしいこと何にもできないのに……」
涙は意志とは関係なく勝手に流れて行って、ちゃんと食べなくちゃ、という意識とばらばらな自分がおかしくなってくる。
「ふ……。あはは、私、ほんとに駄目なのに、こんな時に食べてる……」
「いいんだよ。ちゃんと食べてくれてありがと。ほら薬飲んで」
小食なリカにとって、いつも以上に少なかったが、それでも完食してくれた。よしよし、と頭を撫でて薬を飲ませると、落ち着くまで両腕で抱きかかえる。
「誰も好きで風邪ひくわけじゃないんだし、人間なんだからそういう時もあるよ。俺はほんとに得した気分だから気にしないで」
「でも……」
「いいから。汗かいて気持ち悪いでしょ?軽くシャワーしておいで。その間にベッドもきれいにしておいてあげる」
「そんなのしなくてもいいよ。自分でするし……」
躊躇するリカを立ちあがらせると、バスルームに向けて押し出す。
「いいから。素直に言うことを聞いて?戻ってきたら続きを話そう?」
こくん、と頷いたリカは今度こそ、自力で着替えを用意すると、バスルームに向かった。