「……っくしゅっ!」
休憩がてら、買い物に外に出たリカは冷たい風にマスクを押さえた。
先週は、上着どころか半袖でも暑いと思うくらいのぽかぽか陽気だったのに一転して、驚くほどの冷え込みだ。
なんと、雪も降るかもしれないというくらいだ。
「……う゛~」
思わず恨めしい気分になるが、あまり時間もないから急ぎ足で局へ戻る。
「さっむ!」
情報局のフロアに戻ったリカは一番奥の自分の席へと向かった。
テレワークからは、部分的に解放されて局に出てくる日も増えたが、まだまだ新しい環境との付き合い方に皆が慣れない。
「あ」
間の抜けた声が聞こえて顔を上げると、久しぶりの珠輝がひらひらと手を振った。
「あ、珠輝」
「稲葉さん、いないのかと思ってました」
「ん-、休憩でちょっと外に出てた」
「今日、寒くないです?」
少しだけ近づいてきた珠輝と言葉を交わすのもタイミングがなかなか合わないので、久しぶりだ。
口を開きかけたリカはくしゃみの予感に、片手を上げる。
「……っくしゅっ!」
「えー、稲葉さん。もしかして花粉症デビュー?」
「うん、初めは焦ったけど、花粉症だって」
症状が出始めて、もしやと冷汗をかいたものだが、医者に行ったら何のことはない花粉症だと言われて飲み薬を出されている。
「確かに、今ちょっとってなりますよねぇ」
「うん。もう、マスクに花粉症です!ってマジックで書いておき……」
「あー、いいです、いいです。無理しないで。飴でも舐めます?」
くしゃみを堪えるリカに手を振って、ミントのキャンディをリカの机に放り投げるようにおいて珠輝は離れていく。
この状況になって、帝都テレビもだいぶ体制が変わった。
阿久津は部長と兼務で情報局の次長である。情報局長の間に追加されたポジションだ。
情報局の中もざっくりと分割することになって片方をリカが、もう片方のチームを別なリーダーが取りまとめている。
局の中も細かく仕切られて、ブース状態が増えた。
換気の為に天井までは仕切られていない形で、ミーティングスペースが増えて、場所を抑えるのも専用ページで空きを押さえていく形だ。
「……はぁ。しんど」
マスクをしている分、多少はましなはずだが、いわゆる花粉がキツイ、と言われる日はやはりキツイ。顔も荒れてボロボロになっている。
腰を下ろしてパソコンに向かうと、終わったミーティングの議事メモが回ってきていた。
「さて……」
残った仕事にとりかかろうとして、携帯が震えた。
手を伸ばしてちらりと画面を見て、大祐からのメッセージだと気づいて手に取る。
『今日、早く帰る?』
そのメッセージを見て、何となく察してしまう。
もしかしたらとは聞かされていた。来なくていいと思っていたが、彼らのもしかしたらは確定度合いが高い事が多くて、どこかで覚悟はしていた。
『早く帰りますよ。花粉が大変』
『そっか。なんかおいしいもの食べよう』
すぐに返ってきたメッセージを見て、確信に変わる。
そうなのか。
今も時によっては大差ないのだから、と自分を納得させようとするが胸の中にはずっしりと重いものが広がった。
大祐の異動だ。
リカは大きく息を吸い込んで携帯を置いた。
家に帰って、大祐がすでにキッチンに立っていた隣に並んだ。
「もうね、外やばいの」
「マスクしててもだめなの?」
「そういう問題じゃないのよね。花粉ってこんなにひどいのね。今までみんながいってるの大変そうだなぁって思ってたけど、本当にひどいわ」
手を動かしながら時々、ぐずつく鼻に涙目になる。
大祐に苦笑いされながら、なんとか夕飯を仕上げて二人は並んで座る。
「うん、おいしい」
「成功した。久々に作ったなー」
「もう、私より腕上げるのやめてというのやめましたよ」
「ははっ、俺の方がリカよりおいしいもの作れる自信ある」
お互いにそんな話をしながら食事をして、後片付けを始めると、リカは我慢できなくなって口を開いた。
「それで、大祐さん?」
「ん?」
とぼけているわけではないのに首を傾げた大祐の顔をまっすぐに見てリカは口を開いた。
「どこに行くの?」
「……だよね」
もうわかってるよね。
言葉にしそうになってしなかったのは、大祐もそうならないでほしいと願っていたからだ。
最後の食器を洗って、手を拭ってからリカへと向き直る。
「ちょっと、……遠くなる」
「うん」
「結構時間がなくて」
「そう!下見は?今回も官舎なの?」
明るく答えたリカに、はっとした大祐は黙って腕をのばしてリカを抱きしめた。
「大祐さん?おーい」
ぽんぽん、と頭の後ろを軽く撫でられてますますたまらなくなった大祐はリカの肩に顔を乗せた。
「……いきたくねー」
「……ふふっ。大祐さん、頭の中身がこぼれてますよー」
「うん……」
何かを振り切るように頭を上げた大祐は困ったように笑った。
「リカには敵わないなぁ」
「何がですか。時間がないなら早く引っ越しの予定も決めなくちゃ」
頷いた大祐の手を引いて、再びソファに腰を下ろしたリカは携帯を手にした。
「いつまでに?」
「うん。2月半ばには」
「そっか、2月……。えっ?!2月半ば?!って来週もう2月ですよ?!」
「う、うん」
ため息をつきそうになるが、携帯のメモを開くとますます頭が痛くなって思わず目を閉じる。
「なんか、ごめん……」
「大祐さんのせいじゃないでしょう?……とにかく急いでスケジュールたてなきゃ」
「うん……」
「大祐さん?」
鈍い答えに顔を上げると、珍しく大祐は口元を押さえて何かを堪えている。
「うん。うん……。なんだろうな。すごく、すごく、今までで一番、異動したくないなぁって思ったよ」
「……そっか」
「頭ではわかってるのに、何だろうなぁ。これ……」
そういわれて、手にしていた携帯をテーブルに置いた。
寂しいでもなく、悲しいわけでもない。
特に、大祐の場合は、よほどのことがなければステップアップになる場合が多いはずだ。
仕事が変わることが嫌だと嘆くような人でもない。
どちらかといえば、リカの方がこの手の人事には毎度のことながらドキドキするものなのに。
「流行り病でどうなるんだろうって時に、一緒に暮らせててよかったよ」
「……」
「もう……。どうしたの」
ぽんぽん、と頭をなでるリカの手を握りたくなって、情けない顔を見られたくなくて。
大祐が両手で顔を覆う。
「ふふ。なんか懐かしいね」
「……同じこと思った。けど言わないで」
「なんでよ。ぼろ泣きしてます?」
「してないよ……」
―― 優しい手だなぁ。
いつまでもそうしていてほしい。
そう思ってしまう。
「初めから一緒に住んでなかったよね。だからこれからも大丈夫」
それが自分たちで、離れていても一緒に時間を過ごしてきた。
でも一緒にいられる時間を知っていた時と知らない今とではその色も違う。
「……ねぇ、大祐さん?」
「ん?」
「まあ、社会人って誰でも、だいたいついて回るよね。異動とか、転勤とか。番組が終わっちゃったり、卒業したりってすごく切ないけど……」
違う部署に異動になったり。
番組が終わってしまったり。
卒業してしまったり。
場合によっては、辞めてしまって離れてしまったり。
いつも、そんな報せは突然にやってくる。
決まってしまえば、寂しくて切なくても、大人になればなるほどそれを表に出すことはできなくなるものだ。学生以上に、新しい生活をこなすだけで精一杯の時間があるのだから。
リカの方も、そろそろそんな話題がささやかれ始めている。
ほとんどの番組は継続が決まっているが、終わるものもあるし、卒業していくスタッフもいる。それは、お互いの成長のためであると信じたいが、そうではない場合もある。
「私、少し形が違っても、変わらずに場所を作ることも大事だなって思うんだよね」
「うん?……っていうと?」
「報道に異動する話、打診されたんだけどね。断った」
ぱっと離れてリカと向き合った大祐は目を丸くして顔を覗き込む。
「えっ」
かつて、どれほど報道に戻りたくて足掻いていたか、今でも忘れていない。
リカの深いところでそれはまだずっとあるものだと思っていたからだ。
「な、なんで?報道はリカがずっと」
すっと片手を上げたリカをみて言葉が止まる。
「はい、落ち着いて。……正直、いつかまたとは思ってた。でも、同じくらいずっと考え続けてる」
「なん……」
「情報局だからって伝えることに変わりはないと思ってる。私も、成長したいし、それでポジションが変わることはあってほしいと思うけど、でも、同じくらい変わっていく場を守る人もいていいんじゃないかなって」
あの頃の広報室でいえば比嘉のような存在かもしれない。
今は比嘉も異動してしまったが、そういう人の大事さを今はとても切実に感じている。
「それと一緒。だから、私はここにいるから大祐さんはどこに行っても大丈夫」
「……リカ」
「私は私にしかできないことをする」
「……リカさん。かっこよすぎでしょ」
へへっと笑ったリカの手がブイを作る。
「あー、もう!俺、情けないじゃん!恰好わる……」
「そんなことない。一緒にいたいと思ってくれてるの、可愛いなぁと思いましたよ?」
「うー……。もちろんリカだってそう思ってくれてるとわかってるけど!」
「当たり前です」
ドヤ顔のリカを見ていた大祐がグイっとリカの手を引いて引き寄せた。
「じゃあ、今日は存分に甘えさせてもらおうかな」
そういうと、えっ、いや、その、というリカを強引に押し切って、言葉通り、存分に甘えを爆発させた。
慌ただしく引っ越しの準備をする、と言っても。
引っ越しにあたって、当然ながら単身赴任である。一緒に暮らせることになった時に、大祐が一人で使っていた電化製品や家具は処分してしまった。
「はぁ……」
思わず大きくため息をついたリカを、ちょうど、迎えに来た大祐が手を上げた。
「お疲れ様。遠かった?」
「あ、迎えありがとう」
「もっと遠い場所もあるけど、それでもやっぱりね」
「はぁ……。ほんとにねぇ」
場所は浜松。駅からバスだと聞いて、携帯を片手に指定された場所までバスで移動してきた。
今度も官舎に、と思って身構えたが、どうやら官舎は空きがないのと古くて、立て直しの話が出ているとかで外のマンションになった。
「知らなかった。どこも官舎ってあるんだとばっかり……」
「いや?そんなことはないよ。沖縄とかはないし、ぼろいところが多くて、建て替えっていう話も結構出てる。今回のもそんな感じ」
男一人なら、そんな感じであちこち移動するものだと思っていたくらいだが、そこが当たり前じゃないことに説明しながらなるほど、と思う。
「今回のは特借っていうやつで丸っとうちの上が借り上げてるやつ。ただねぇ……、官舎じゃない分もうちょっと選びてぇってなるんだけどさ」
夫婦の会話とはいえ、具体的な名前をなるべく出さないのがお互いの仕事柄である。
うちの上、というのが防衛省なんだな、と頭の中で置き換えながら、リカは大祐について、引っ越し先のマンションで、納得した。
新築なんて贅沢は言わないのは、まああり得るとして、大祐がいうところのぼろい、まではいかない。
でも、確かに賃貸でこの物件を見に来たら選ばないかもしれない。
「……なるほど」
部屋に入って思わず出そうになった呟きを飲み込んで、一通り見まわしてから呟く。
角部屋でいいじゃない、と思いそうだが、玄関をあけて正面になぜか洗濯機スペースがある。直角に体の向きをかえると、廊下であり、キッチンである。玄関ドアのすぐ脇から流しとコンロが並んでいるのだ。
これでも角部屋だからこの造りなわけで、他の部屋は玄関ドアの分、狭いのだろう。
洗濯置き場の並びは壁になっていて、キッチンの壁かとおもいきや、どうやらその場所にあるのはトイレとシャワースペースだった。
細長い長方形の部屋の中をテトリスの様に組み合わせるとこうなる、という見本のような造りである。
浴槽がないのはどうやらリフォームの際にトイレとシャワースペースを分けたことで、ユニットバスではなくなり、洗濯機が室内に置けるようになったからという。
「まあ、こんなもんだと思うけどさ。こういう時色々困るんだよね」
肩を竦めた大祐の手招きで部屋に入る。一応、二間続きになっている間の部屋に立つ。
「まずこの部屋ね」
大祐が指さした場所にはコンセントと、テレビのアンテナ線だろうか。
ただ、その場所はキッチンのすぐそばだ。
「う……、さすがに自炊するなら隣にテレビは……」
「おかないけどね。さすがに。それでもコンセントがあるならちょっと物を置きづらいし、向こう側は風呂だから、湿気がすごいだろうから」
壁際にこそ、服や棚を置きたくなるものだが、湿気がと言われれば躊躇われる。
そして、エアコンは奥の部屋にしかついていない。
「奥の部屋に寝る場所と、服を置くしか……」
そう言いながらも奥の部屋もなかなかに悩ましい。なぜなら窓際の壁、柱が内側に張り出している分、結構なスペースをとられているのだ。
「エアーベッド買ってくれて助かったよ。とりあえず、後は中古か安いもの探すよ」
「そうね。それしかないね」
かろうじて置かれたエアーベットと、天井の照明だけは前の住人が置いていってくれたので部屋の灯りにも困らずにすんだ。
ローテーブルは、足が折りたためるものをかろうじて残していたので、それと、布団と、着替えを持ってきたくらいで。
「ちゃんと荷物運ばなくてよかったの?」
「いいよ。リカが送ってくれた奴あるし」
段ボール一つ分、リカが送ったカップやらなにやら雑貨が置いてある。
「ああ、あれね」
「うん。助かるよ」
というのも箱の中身は、局のグッズである。もうだいぶ前の物など、プレゼントや販促グッズとして作られたものの半端物をたまたまいくつか、もらって家にもってかえってきたものの、使うことなくしまい込まれていたものをここぞとばかりにもってきたのだ。
「心おきなく使ってください。何ならもういっそ割れても別に惜しくないし」
「いやいや、今どきはレアものとして価値あるだろうに」
だからといって、それを流行りのネットオークションに出せるわけもない。ならいっそ、惜しくないとばかりに使ってしまった方がいい。
そんな部屋の中ではさむいだろうと、リカの為にだけ近くの量販店で、まにあわせに買った大きな座布団とラグの上に並んで腰を下ろす。
「これからはここが大祐さんの部屋になるのね」
「もう今すぐ帰りたいんだけど」
「まあ、今日は帰るじゃないですか」
「来週にはまた手続きで来なきゃいけないのわかっててそういうこと言う?」
耳も尻尾も項垂れた様子の大祐にしょうがないなぁ、と苦笑いが浮かぶ。
「俺、人に教えるとかむいてないんだよなぁ。比嘉さんみたいに順序だてて、根気強く教えるとかもう……」
「ん-、でも私でもなんとかなってるんで、きっと大丈夫。だって、結局は教えることよりも、相手とどう向き合うかじゃない?たとえ、それが仕事でも」
あえて聞かないし、そうだとも言わなくても、浜松には教育部隊があるのは分かっている。その部隊に配属になるのか、それとも関係する部隊なのかはわからないが、きっとそういうことだ。
「いつものように、あえて聞きませんし、聞いてもいいませんけどね?」
「いつも助かってます。まあ、別に今回はというか……うん。隊務の統括というか、教育部隊のその辺だから一応、現場で訓練するとかじゃないけど、俺も教えることになると思う」
「そっか。まあ、色んな人がいるからね」
人は色々で。合う人もいれば、どこまで行ってもそりが合わない人もいる。
そんな時に、他愛ない話でも聞いてくれる人がいるのといないのとでは大きく違う。
「あのさ。うちは、きっと、普通の夫婦じゃありえないくらいお互いの仕事では秘密が多いけど、それでもリカの話だったら、どんなことでも聞きたいし、しょうもない話でもなんでも。だから、今度も少し離れるけど、6時間くらいの間には駆け付けるから」
その言葉に、ぷっとリカが吹きだした。
「6時間って!」
「うん。それくらいなら何があってもだいたい調整して駆けつけるから」
いざという時には傍にいないというのが彼らの仕事だが、大祐はいつもこういう言い方をする。それは二人の間ですでにあったことだからだ。
だからこそ、必ずどのくらいでは駆け付けられる、という。
それでさえ確約できるものではないけど、平時ならばそのくらいあれば実際に駆けつけてくれる。
そして、リカの方も同じだ。
立場が上がればなおさら、いざという時に家に落ち着いていることなんてないのかもしれない。
「じゃあ、後輩とは、とか、新人とは、で困ったら大祐さんも私に頼っていいですよ?だいたい8時間くらいくれたら何とかします」
「……じゃあ、うなぎが食べたくなったらとか」
「それはもっと詳しそうなダンディな方がいるので!」
相変わらず、ダンディな大祐の元上司に連絡した方がフットワークが軽い。
その手が……、と渋い顔になった大祐が隣に座るリカの肩に寄りかかる。
「その時は緊急事態っていって、俺も呼んで」
「あはは。それはいろんなところに筒抜けですよ?」
「いいよ。そのくらいは黙っててもらうくらいの貸しは俺にもあるよ」
並んで。
膝を抱えて。
春もまだ先なのに、こんな風に。
どちらからともなく、指を絡めて手をつなぐ。
この手の温かさを、少しの間忘れないように。
まだ春は。
—end