FLEX102~記憶の残り

綿菓子のように柔らかな唇の感触は、甘さだけが鮮明で他はすべて溶けてなくなるから、欲しくてたまらなくなる。

「……なので、残念なんですが、入隊説明会にこの後何回かは行けないんですよね」

化粧っ気がいつも薄いなと思うリカのまつ毛が動いて、話をしている頬のラインから口元にかけて、薄らと化粧ののった肌から口元に視線が吸い付いて離れない。
口紅、というにはごく自然な唇の色に色々と考えてしまう。

そう言えば、ナポリタンを食べた時はケチャップの方が赤いんじゃないかと思うくらいだったし、りん串で飲んだ時もほとんど変わらなかったが、店を出る間際に手洗いに立った後、きれいだと思ったからきっと口紅は直したのだろう。

―― たった2秒の感覚なんて覚えてないんだよな……

自分から強引に奪っておいて言うのもなんだが、あの後、手を握ってきたリカに驚いた。そして、何かが伝わったんだと思って、嬉しくなった。
繋がれた手からは確かな想いが伝わってきたと思ったから、それも自分達らしいかなと思いながら何も言わずに戻って、それから何事もない日々が続いている。

「……さん。空井さん?聞いてます?」
「……あっ!はいっ、はい!!聞いてますっ。稲葉さんのことならいつでもっ」

自分の考えに浸りきっていて、リカが話していたことを全く聞いていなかった空井は、少し強いリカの声に慌てて飛び上がった。

勢い余って、コーヒーののったテーブルががたっと揺れる。
大声で叫んだ空井に、広報室の視線が集まった。

「空井~。お前、仕事中に何言っちゃってんの?」
「あっ!!いやっ、その、仕事の話ですよ!!もちろん!稲葉さんは、自分のなんていうか、あのっ」
「あの、なんだよ~?稲ぴょんはお前のなんだっての~?あ゛~ん?」

座ったままでガラガラと椅子ごと移動してきた片山がじとっとした目で空井ににじり寄っていく。
まさに、猛獣の前に餌をほうりだしたような一言で、片山の追及はそこがどこであるか、リカの立場がどうか、など全く頭には入っていない。

「お前、この前から妙に稲ぴょんに接近してねぇか?あ?」
「そんなことないですよ!もういいですから片山さん、向こういってくださいよ!仕事してくださいっ!」
「馬鹿、お前こそ、仕事中にいきなり叫びだしたんだろうが!稲ぴょんの話だったらなんでも聞いてますぅなんつって」

止まることを知らない片山のことは皆がわかっている。にやにやと途中まで話を聞いていた槇や比嘉だったが、柚木は背を向けたままでいた。その柚木がくるっと立ち上がって、片山の椅子の背を思い切り回す。

「うるさいんだよ!片山っ!お前、仕事しろ、仕事!」

ぐるんっと思いきり椅子を回された片山が目を白黒している間に、どかっと柚木が自分の席に戻っていき、呆然としている片山を槇と比嘉が両脇を掴んで引き戻していく。

椅子を蹴り飛ばしそうな勢いで立ち上がりかけた空井が、片山を睨みつけながら腰を下ろした。

「すみません。稲葉さん。気にしないでくだ……」
「……はい」

妙に大人しくリカが答えるなと目の前に座っているリカに視線を落とすと、俯いたリカが髪を耳に何度もかけていて、わずかに覗いた耳の上の部分が真っ赤に染まっていた。

それを見た瞬間、かあっと頬に血が上った気がして、リカと同じように俯く。

「……すみません。なんか……」
「……いえ。じゃあ、あの……、私そろそろ失礼します。次の時はまたアポイントとらせていただきますね」
「えっ?!」

毎週、毎日のように来ていたリカの発言に驚いた空井が顔を上げる。
だが、その視線を受けてリカの方が怪訝そうな顔になった。

「空井さん、やっぱり、さっきの話、聞いてなかったんですね?」
「えっ?いや、聞いてましたよ。入隊説明会ですよね?」
「もうっ!やっぱり聞いてない。ですから、私、ちょっと県外の取材とかが入ってしまっていて、伺っていたほかの入隊説明会の日程では取材に来られないってさっきおはなししたじゃないですか。密着も一応CMができるところまでということだったので、次の企画がまとまりましたらまた来ます」

次の企画ということは、それが固まるまではしばらくリカが空幕へ来ることもないということだ。
一気に顔が曇った空井は、そうですか、とだけ言って、目の前に広げていた資料を集めると、さっさと立ち上がった。

急に態度が変わった空井に目を瞬かせたリカは慌ててバックを手にすると、頭を下げて広報室を後にする。そのリカを見送りにエレベータホールに出た空井は視線も合わせようとしない。

リカの顔を見てしまえば、言わなくてもいいことをいうか、余計なことをしてしまいそうだった。

「取材……」
「はい?」
「……また、必ずきますからその時はよろしくお願いします」

同じように視線を合わせずに一息に言い切ったリカの口元に視線が向かってしまう。

―― あの時は……、柔らかくて稲葉さんとキスしてるって思ったら頭が真っ白になって……

「空井さん?」
「あっ!いや、あの……稲葉さんとしばらく会えないんだなって思ったらなんか……。すみません。稲葉さんの話を聞いていなかったわけじゃないんですけど」

―― ただ、もう一度キスの感触を思い出していたなんて言えっこないんだけど……。もう一度、キスしたいなんてもっと言えないし……

どうしよう、どうしよう、と、頭の中でぐるぐるしていた空井はエレベータが開いてリカが乗り込んだ後、頭を下げて扉を閉めようとしたところに手を強引に差し入れた。

「ちょっ!!空井さん!」

がこん、とドアの間にあるブレーキが空井の掌によって押し戻される。
手を挟んでしまいそうだったところを見ていたリカは慌ててパネルに飛びついていた。

「危ないじゃないですか!本当に挟んじゃったらどうするつもりですか!」
「大丈夫ですよ。ブレーキついてるし。ここに」

再び閉まろうとするドアの間に、今度は体ごと押し込んで背中で押し戻した。ほかに人のいないエレベータに乗り込むとリカの隣に立って、パネルの閉じるを押す。

「稲葉さん」
「……はい」
「今度……、電話してもいいですか。その、次にいつ来られそうかって……」
「あ、それなら私の方からお電話させていただきますが」

初めは空井が何を言うのかと身構えていたリカは、空井がいうことでもあり、すぐに仕事の話だと思い込んで言葉を返す。

―― 空井さんが、私にプライベートで電話なんて……。やっぱりないよね?この前もあれっきり……

「あ……、いや」

何かを振り切る様に軽く頭を振った空井は、顔を上げてリカの唇を見ながら息を吸い込んだ。

「プライベートで予定、聞かせてください。自分、いや、僕、稲葉さんを飲みに誘いたいので」

まさかの一言に目を丸くしたリカは何かを答えなければいけないと思って、しどろもどろに応えた。

―― もし、本当に空井さんが誘ってくれたら。その時は……

次は“2秒”を自分から奪いに行ってみようか。

あの時は、ほんの一瞬の出来事で、何が起こったのか、正直、理解さえできなかった。
ただ、後に残るのは空井の唇の感触ばかりで、あれから何度も口元に手をやってしまう。

―― でも次は、全部、ちゃんと記憶に残る様に……

局へ戻る帰り道であれこれと考えながら、リカは携帯を握りしめた。

――end

 

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珍しくも8話と9話の境なので、FLEXに入れていいのか迷いました。迷ったけど、短編集がFLEXだからいっか、ということで。

投稿者 kogetsu

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