朝の支度をしている最中にすれ違った瞬間、あれっと振り返った。
「リカ、なんかつけてる?」
「え?」
ピアスをとってきたリカが鏡の前に立つ。
「なあに?」
耳にピアスを付けている最中のリカに軽く頭を下げてくん、と鼻を動かすと大祐が気になった香りがする。
―― やっぱりそうだ
柔らかくて甘い香りがする。どこかで嗅いだ気がして、あ……、と言いかけて固まった。
何だっけと思っていると、心配そうな顔でリカが振り返る。
「キツイ?」
振り返って俺の肩に手を置いたリカが大祐のの方へと一歩近づく。ふわりと一瞬だった香りがはっきりと甘いかおりとわかるようになる。
「今年は天気がおかしくてあっという間に散っちゃったでしょ?なんかそれが寂しくて、ね」
よほど、顔に出ていたのだろう。誤解しているかな、と首を傾げたリカに素直に問いかけた。
「なんだっけ。これ」
「金木犀」
あのオレンジ色の小さな花よ、と教えてくれる。
一歩間違うとトイレの芳香剤になってしまうところだが、甘い香りが欲しくて手を出した練香。少し塗っただけでもふわりと漂う。
リカが自分自身で、一人満足していたらすぐに気づかれてしまった。香りが強いのかな、と不安になったがどうやら花の名前を思い出せなかったらしい。
「そうだよね、そういえば今年咲いた?」
「今年は寒くなって咲いたと思ったら、すぐに暑さがぶり返してきて、あっと言う間に散ってしまったのよね。いつもなら蕾の頃から香りがするんだけど、気がついたらもう散ってたの」
いつもこの頃になると窓を開けているのがすごく楽しみなのだ。夜、家に帰ってきて、風に乗って香るほのかな甘い香りを楽しんでいたのに、今年は駄目かと残念に思っていた。
「そっかあ。もう散ったのかあ」
今更のように残念そうな呟きにぎゅっと抱き着いた。
本当は少しでも香りがする間は窓を開けておきたかったのに、開けておくのは不用心だと言ったのは大祐である。本当は違う理由もあったのだろうに少しずるい言い訳だ。
「この香り大好きだったの!」
「そっか。俺も好きだよ。すごーくいい香りだ」
抱きついてきたリカをぎゅっと抱きしめ返して、すんっと香りを吸い込む。
しばらくこのままでいてくれないかな、と思いながらリカをぎゅっとしていると、調子に乗りすぎ、とリカに怒られた。
それから一週間ほどして、リカよりも電車で2,3本後に大祐が帰ってきた。
「リカ、リカ」
「おかえりなさーい」
「ただいま。手出してみて」
化粧もそのままに部屋の中を片付けようとしていたリカが大祐を出迎えて、ん?と首を傾げた。妙に機嫌のいい大祐がぐーにしている手を差し出す。
手のひらを出すと、その手のひらの上に大祐が拳を開いた。
ぱらぱらっと広がったものと一緒にふわっと香りが広がる。
「これでしょ?」
そういって大祐がリカの掌に乗せたのは、濃い黄色の金木犀の花だった。
「リカからこの前聞いて、気にはなってたんだけど、台風の後に急に開いたみたいで帰りに見つけたんだ」
「え、どこで?だって、局のちかくのはこの前一気に散ってしまって、根元に全部花が落ちてたのに」
「へっへっへ。あのね、市ヶ谷の門の傍。これでも下に落ちててきれいな花だけを選んで拾って来たんだよ。そしたらこの近くでも匂いがするからどっかで咲いてるんじゃないかな」
ずっと掌に握りしめてきたから、小さな花は下に落ちていたこともあって、しおしおとしてしまっているが、その強い香りはまだ漂っていた。
「えー……。嘘みたい。いい匂い……」
「ちょっと時間あるならこの辺、歩いてみる?」
まだ着替えていないリカに空っぽになった掌を差し出して、夜の散歩に誘ってみる。二人で何も持たずにふらりと夜の道を歩き出す。マンションの周りの住宅がある方へと歩いていくと、どこからか、ふわりと香りが漂ってくる。
「ほんと。まだ咲いてるみたい」
「ずっと咲いてるんじゃなくて、一度散ってから、涼しくなってまた咲いたんじゃないかなぁ?」
手を繋いでリカ一人ならば、なかなか歩くことがない少し薄暗い細い道もゆっくりと歩く。
香りに誘われるように歩いていると、庭木やマンションの植え込みなど、いくつか咲いているのを見つけることができた。
「はぁ……。素敵。ちょっと寒いくらいがちょうどいいかも」
「そう?寒かったら風邪ひく前に帰ろうね」
「うん。でも気持ちいい。こういうの」
ひっそりと、夜の片隅を歩くようで、心地よかった。
しかも一人ではなく、ゆっくりと手を繋いで歩く時間がひどく静かで。
「ありがとう。大祐さん。教えてくれて」
「どういたしまして。俺もこうしてリカと散歩できたからよかったよ」
二人、顔を見合わせて微笑み会う。
一緒にいるからこその、ささやかな時間。
—end
これもまたツイッターの小話です。なんか雰囲気で書いちゃいました。