リカの住んでいたマンションにそのまま住んでいる今、表から帰っても玄関のドアを開けるまで表から部屋の住人が帰ってきているかはわからない。
鍵を差し込んで、ドアを開けた瞬間の空気の違いは大きい。ふわりと動いた空気が何より一番に感じる。
「おかえり」
その声に今日は早いな、と思いながら大祐がただいまと答える。
部屋に入ると、一番先にリカを見つける。キッチンに立っているのに、その眉間に皺が寄っていた。こういう時は、何も言わないことにしていた。鞄を置いて、スーツを脱いでから、着替えを手にしてシャワーに向かう。
その間に、考え事の海からリカは浮上する。
黙っていても、リカだけに敏い大祐に聞かれるよりも、ひとまず自分の中で思いきった。チキンソテーにするつもりで買った胸肉の皮のない方を、思い切りよくフォークで突き刺した。
ただいまの声にハッと我に返ったこともきっと大祐にはすぐわかっただろうが、何も聞かないでくれることにほっとしながら、フライパンに火をつけて、お肉を乗せた。
だいぶ涼しくなってきたが、やはり通勤の間は少し汗ばむ。さっぱりとシャワーで疲れと汗を洗い流した大祐は、朝出て行った時と同じ笑顔でリカの前に立った。
「今日は早かったんだね」
「そうなの。大祐さん、地震大丈夫だった?」
昼時に、結構な揺れを感じた話を切り出すと、お互い話が止まらなくなる。
リカも大祐もたとえ小さくても揺れると、すぐに反応しなければならない。安全の確認、震源地の確認、被害状況。
それらを確かめることが仕事の一つだからだ。
「ちょっと大きかったよね」
「そうなの。フロアの警報って、あの頃は敏感すぎたけど最近、揺れてから鳴ったりするからよくないのよね」
テレビ局には地震計があって、局で感じられた震度を測ることができる。それと震源地の情報を得ながら速報を流す。それが帝都イブニングの様な情報番組の生放送中ならリアルタイムに流さなければならなくなる。
「最近またちょっと大きめのが続いてるから気を付けないと……」
「……ん」
話している間に、皮から脂が抜けてパリパリになっていくのを見計らって、裏に返す。皮の方から出た油でパサつくはずの身の方を焼きにかかる。
「いい匂い」
つられたのか、すぐそばに立った大祐がリカの体に背後から腕を回した。
「一日、お疲れ様だったね」
「ん……、少しね」
こうして傍にいればなおさら、大祐にはわかってしまうのだろうなと思いながら、とん、と背後の大祐に頭を寄せた。
『少しね』
その一言に、すべてが込められた気がして、いくらでも聞くよ、とリカの頭に頬を寄せた。
まっすぐすぎるとリカ自身も時々思うのに、それを大祐は受け止めてくれる。
「ごめんね、面倒で……、私」
元々の気持ちなのか、申し訳ないのか、しょぼくれた気持ちをぽんと頭に置かれた手が撫でてくれた。
「間違ってるときは間違ってるってちゃんと言う。でも、大抵リカは間違ってないんだよね。だからいいんだよ」
ほんとかな?と、見上げた顔がよほど不安そうだったのか、にこっと笑って、額にキスが来る。
「ほんとだよ。リカの話を聞かせて?」
今日一番の大仕事みたいに、優しい声がそう告げた。大人だからと言って、どこまでが自分の仕事で、どこからは手を出すべきではないのか、その場の判断はなかなか難しい。
境界線はいつも緩やかで、境を越えていてもうまくいくときもあればいかない時もある。
とっさに境界線を踏み越える判断をしたリカは、放送が終わった後で阿久津に注意を受けた。決して悪い判断だったわけではない。だが、チーフになったリカならもっとうまくできたはずだと。
振り返ってみれば確かにもっとうまくできたはずで、リカ自身もその説教は納得していたから仕方がないと思っている。
それよりも、自分自身に対して、腹立たしかった。
「あの……」
「ん?」
「ううん」
迷っても、どうしても、答えは自分で見つけなければならない。
「いいの。大祐さんの顔みたら元気出た。あとは、一緒においしいご飯食べたら大丈夫!」
そう言って笑ったリカの髪をくしゃっと撫でた。
頑張りすぎだと傍から見ればそう思うのに、リカはやはり今も自分から辛い道へと自分を追い込んでいく。
そんなリカだからこそ大祐は一緒にいるときくらい、いくらでも甘やかしたくなる。
「じゃあ、おいしいご飯?残りは後は味噌汁かな。手伝うよ」
「ありがとう」
「どういたしまして」
隣りに立った大祐が作りかけていた味噌汁に手をかける。
そんな大祐にああ、もう!と思う。
「もう、いっつもこうやって大祐さんの方が大人で、私、助けられてばっかりで情けないったら!たまには私の方が大祐さんを癒したいくらいなのに!」
「……リカ、それ、独り言?それとも俺に言ってる?」
「え?わっ!!私、今口に出してた?!」
「出してた」
時々やる、リカの無意識な呟きは時々、胸の内をうっかり口にしていることがあって、それをからかうのも面白いのだ。
くくく、と笑った大祐は、手を伸ばしてリカの腰のあたりから背中の真ん中をつうっと指で撫で上げる。
「ひゃぁっ!」
「だーいじょうぶ。俺は後でたっぷり癒してもらうから」
にっと笑った大祐の意味に気づいて、真っ赤になったリカは両手がふさがっているから、空いている片足で大祐の肩足に蹴りを入れる。
「馬鹿っ!だいすけべ!」
「あっはっは!」
部屋の中の空気が少しずつ変わって、二人の空気になる。
夕食ができるまで、あと少し。
――― end
ツイッターからだいぶ膨張させた1話でした。