テーブルの上においていた携帯の振動でリカは手を伸ばした。
『今日は会えなくて残念でした。ようやく帰ってきて、風呂に入ったところです』
大祐が仕事だということで、どちらが移動することもない週末になったのだ。
携帯を手にしてメールを打ちかけて止める。アプリから無料通話をクリックする。仕事のときはもちろん、気にせず通話していたが、今はうっかりすると通話代だけでとんでもないことになってしまう。
「もしもし。稲葉です」
『はい!お疲れ様です。空井です』
いくらもせずに応じた相手の声が少しだけ弾んでいるように思えて、その堅苦しい電話の出方とのギャップに思わず笑い出した。
『え?僕、なにかおかしかったですか?』
「……いいえ。でも、空井さん、いつまでそのお仕事口調で電話に出るんだろうなぁと思って」
『あっ!……すいません。つい』
「いえ。私も……」
付き合い始めた、といってもその瞬間からプロポーズを受けて、0時間で婚約者である。まだまだその距離や時間もあってお互いにぎこちないのは仕方がない。
こほん、と気を取り直したらしい大祐が、改めて口を開く。
『え……っと、稲葉さんは今日は何してたんですか?そっちはお天気よかったんでしょう?』
「ええ。昼間はすごくあったかくて。花粉症の人は大変だったと思いますけど、私はそれほどひどくないので、洗濯したり部屋の中を片付けたり」
『へぇ。あ、このまま話してて大丈夫ですか?』
大丈夫だから電話をかけたのに、と思いながら律儀な大祐にはい、と頷く。
「あったかくなってくると、色々動きたくなっちゃいますね。キッチンとか部屋の中に、なんとなく溜まっちゃった雑誌とか片付けてたんです」
『わかります。特に春先ってそうなりますよね。でも稲葉さん、きちんと片付けてそう』
「そんなことないです。ついつい、忙しいと……」
『仕方ないですよ。あ、そういえば明日って広報室に行かれたりしますか?』
「明日、ですか?」
手を伸ばしたリカは鞄からスケジュール帳を引っ張り出して膝の上でめくる。
今は前ほど広報室に顔を出すことはないが、先日の取材の件もあって顔を出す予定があった。
「はい。比嘉さんにお時間をいただいてます。なにか?」
『いえ。今はあまり広報室に行かれることがないって聞いてたのでどうなのかなーと……』
妙に機嫌のよさそうな大祐とあれこれと話しながらまた気がつけば夜も遅くなっていく。
翌日、あくびをかみ殺したリカは、ショルダーバッグのほかに小さなペーパーバックを手にして広報室を覗き込んだ。
「比嘉さん。こんにち……!」
「稲葉さん」
奥の打ち合わせスペースにいた比嘉が立ち上がるのと同時に、打ち合わせ相手も立ち上がった。
「え?!空井さん?」
「こんにちは。稲葉さん。びっくりしました?」
にこにこと笑みを浮かべた空井がリカの傍に近づいてくる。その後ろから比嘉がいつもの生温い笑みを浮かべて立っていた。
「どうしたんですか?」
だって、夕べ電話したときには何も、といいそうになってリカは言葉を飲み込む。そのリカに悪戯っぽい笑みを浮かべた大祐が内緒話をするように近づく。
「稲葉さんに会いたくて着ちゃいました」
「え、えぇ?!」
「空井一尉も言うようになりましたねぇ」
ぱぱぱっと頬が赤くなったリカをからかうように比嘉が合いの手を入れた。
からかわれれば動揺していた大祐も今は余裕の笑みを浮かべている。
「少しは僕も成長してますから」
「成長した人は仕事中に彼女を口説いたりしないと思いますけどね。稲葉さん、どうぞ」
さらっと大祐のことをあしらってから比嘉はリカをうちあわせスペースに誘導する。若い隊員がコーヒーを入れて運んでくる。
戸惑いながらも打ち合わせスペースに腰を下ろしたリカは、比嘉と並んでいる空井になかなか視線を向けられなかった。
「実は、稲葉さんが先日の取材の件でいらっしゃると聞いたので、ちょうど用事があった空井一尉に来てもらったんです」
「はい。すみません。驚かせようと思って黙ってたんです。残念ながらとんぼ返りなんですけど」
ああ、そういうことか、とようやく納得したものの、夕べかなり遅くまで話していた相手がいきなり目の前にいるとなると、なんとも落ち着かない。
どうせ会えるのは週末だろうと、最後のほうには眠気もあいまって、リカにとってはかなり恥ずかしいくらい素直になっていたのもある。
「そ、そういう時は、是非、お知らせいただかないと」
「そうですね。すみません」
素直に侘びを口にしていても、その満面の笑顔からはとても申し訳ないと思っているようには見えない。これが犬なら思い切り尻尾を振っているような気がした。
「どうぞ。空井一尉への恨み言は後ほど思う存分。ところで、いかがでした?」
「はい。おかげさまで視聴率もとてもよくて」
放映した特集コーナーの視聴率は普段よりもかなりよかった。わざわざ阿久津から全員に、一声挨拶があったくらいだからかなりいい。
プリントしてきた視聴率のほかに、簡単にまとめた資料を持ってきている。
「お電話でお話しましたが、視聴率がよかったために、土曜日の午後なんですが、もう一度編集しなおして30分番組になることになりまして」
「それは……」
放映する内容、機材などの再確認をまじめくさった顔で話し合った後、リカは持ってきた小さなペーパーバックを差し出した。
「あと、これ。よかったら皆さんで」
「いつもありがとうございます。なんです?」
「いえ、これはあの……お口に合わないかも知れないんですけど。バレンタインに作ったときの材料が半端に余っていたので作ってみたんです」
ほお、と呟いて、中を覗き込んだ比嘉は、多少ゆがんだラッピングに黙って頷きながらひとつ取り出した。
あけてみても?という視線に気まずそうに頷く。
「……あ、おいしいですよ?生チョコ」
「生チョコ……ではないんですけど。そのうまく固まらなくて」
チョコレートを溶かしてナッツを混ぜて固めるだけのはずがうまく固まらないというのも珍しい。
「べ、別にへんなもの混ざってないですよ?!ただ、溶かして混ぜただけなんですけど少しだけやわらかくなっちゃって……」
「……なるほど。いや、十分おいしいです。ありがとうございます」
リカの不器用さに笑いが出そうになるところを押し殺して、紙袋の中を数えた比嘉が、眉を上げる。
「あー……。残念ですね。空井一尉の分はないようです」
「えっ」
リカに会えた事で嬉しそうに尻尾を振っていた大祐は、リカの手作りチョコと聞いてその目が輝いていた。何も言わなくてもリカに向かう目には、千切れんばかりに尻尾を振っているような姿だっただけにその顔が凍りつく。
「だ、だって、皆さんの分しか持ってこなかったし、空井さんがいらっしゃるって知らなかったので……」
「ですよねー。稲葉さんは悪くないと思いますよ。他の者の分までありがとうございます」
つい今まで尻尾を全力で振っていた様子から耳までぺたりとしょげてしまった大祐に困ってしまう。
これで、広報室には他に人が少ないならまだいいのだが、今日は外出している者も少なくて他に人がいるのに余計なことを言うこともできない。
困ったリカに目線で助けを求められた比嘉は、小さく頷いて立ち上がる。
「空井一尉。稲葉さんを下までお送りしたらいかがですか。前のように」
「あぁ、いえ!大丈夫です。今日の用事も再放送のお話だけですから!これで!」
慌てて立ち上がったリカが逃げるように頭を下げて広報室を出て行く。呆然としていた空井は比嘉につつかれて、急いでその後を追いかけた。
「待ってください!稲葉さん。送りますから」
「大丈夫です!」
「稲葉さん」
エレベータの前でリカに追いついた大祐が下に向かうボタンに手を伸ばした。
リカのとなりに並んで立った大祐がリカの手を握る。
「下まで送ります」
「……はい。ありがとうございます」
「いえ。少しでも顔を見たくて……。驚かせてすみません」
少し冷たいリカの手がきゅっと大祐の手を握り返す。
「驚きましたけど!……驚きましたけど、嬉しい……ですよ、私も。会えるとしても週末だと思ってましたから」
「稲葉さん……」
となりから顔を覗きこんでくる大祐にどんどん頬が赤くなっていくのがわかる。
握った手の甲を指で撫でられて、リカが顔を上げた。
「僕の分はないんですか?チョコレート」
「空井さんには、あげたじゃないですか!」
「え?僕、手作りチョコなんてもらってませんよ?」
ちん、という軽い音がしてエレベータの扉が開く。誰もいないエレベータに乗り込んで1階のボタンを大祐の長い指先が押す。
「買ってきたやつですけど、ちゃんとあげたじゃないですか」
「……手作りチョコの材料が残ってたってことは、誰かに作ってあげたんですか」
「違います!あれは……。あれは、空井さんにと思って作ったけど、うまくできなかったから……」
自分の不器用さは十分自覚している。大祐に渡すわけではないと思っていたから昨日は多少、いびつになったがそこそこのものができたので持ってきたのだ。
大祐にと初めは材料を買ったものの、うまくできなくて諦めたからこそ、半端に材料が残った。諦めて、市販のチョコを買って大祐には渡していたから本当ならばれずにすむはずだった。
「え……、じゃあ本当は僕に作ってくれるはずだったんですか」
「……そ、空井さんの分は」
「本当ですか?」
1階について開きかけたドアを大祐の手がボタンを押して閉じる。
「空……っ、空井さん、近」
―― 近いです
ここが他でもない、市谷のビルの中であることを考えれば、恥ずかしいだけでなく、誰かに見られたらという思いが頭をよぎる。
そのリカを一瞬だけ、ぎゅっと大祐が抱きしめた。
「あとは週末の楽しみに取っておきます」
「……っ!楽しみって……!」
「そのときは、絶対手作りチョコ、お願いしますね」
目の前でにこっと笑った大祐が今度はエレベータの開くボタンを押した。リカの手を引いて外に連れ出す。
「あー!すっごい残念です。今日はすぐ戻らなくちゃいけないんです。稲葉さんもまだこの後仕事があるんでしょう?」
「う……、はい」
今までは素っ気無いくらいだったのに、急にオープンになってどきどきさせるような態度ばかりをとる大祐に翻弄される。
まるで別人のような態度に目を白黒させていたリカの手をぎゅっと握ってから離した。
「今夜も電話、しますね。お仕事、がんばってください」
「……空井さん。別な人みたい」
「え、そうですか?」
格好がおかしいのかと、スーツ姿の自分をきょろきょろと見ている大祐に握り締めた右手を差し出す。
反射的に差し出された手のひらの上に、白い飴の包みが乗せられた。
「じゃ!今夜、待ってますね。お疲れ様でした!」
身を翻して早足で歩き出したリカを呆然と見送った大祐は、我に返って手のひらの飴を見た。
「!!」
口元に手を当てて、半分隠した大祐はくるりと裏を返す。
白い包みの表には可愛らしいハートが描かれていて、それだけでも嬉しかったのだが、何気なく返した裏側にはメッセージがプリントされていた。
【大好き!】
耳を真っ赤にした大祐がしばらくしてから広報室に戻ったことをリカは知らない。
「空井一尉?……なにやら顔が赤いですけど。職場で怪しい事、してないでしょうね?」
「しししし、してません!なんにもしてません!」
「……惜しい。ここに室長や、片山さんや柚木さんがいればねぇ」
恐ろしいことを呟く比嘉が不気味で、今日のことは誰にも言わないでくれと口止めとした大祐も松島へと帰っていった。
—end
今回はリクエストによりこんなお話になりました。
2時間遅れたけどアップ~。
ちなみに、りくは付き合いたて、チョコのお題でした